支援者は探偵であれーミニ読書感想『自閉もうひとつの見方』(バリー・M・プリザントさん&トム・フィールズーマイヤーさん)
バリー・M・プリザントさん&トム・フィールズーマイヤーさんの『自閉 もうひとつの見方 これが私だと思えるように』(長崎勤さん監訳、福村出版、2024年5月10日初版発行)が、ASD(自閉スペクトラム症)の子を育てる親として深い学びになりました。もうひとつの見方とは、人としての尊厳を何より重視する見方。治すとか、普通にするとかではなくて、その人がその人らしくあれる道を模索する考え方でした。
著者のプリザントさんは、長年ASD者を支援し、中には幼少時に支援した人がもう高齢者になっている、というくらいのベテラン。本書では、ASD者という言葉は使わず「自閉人」という言葉が登場する。それをひとつの個性として、ASDの特性を持つ人が一種の「トライブ」にあると考えます。
最も学びになったのは「ASDだから」「自閉症だから」というカタハメ・決めつけの発想を抜け出すこと。本書の表現を借りれば「支援者は探偵になること」です。引用します。
手をひらひらさせることや、相手の発言をオウム返しするエコラリア。こうした行動をする理由は「自閉症だから」で片付けられがちです。しかし、たしかによく考えると、それはトートロジーでしかない。自閉的行動だとしても、いま、その人が、なぜそうした自閉的行動を起こしているのかの説明になってはいない。
カギとなるのは、引用に出てくる「調整不全」です。ASDは得意な感覚を持つことが多く、情報処理の仕方も特徴的で、セカイや人間関係との間に軋轢が生じやすい。そうした不全感を調整するために、手をひらひらさせるといった常同行動が出てくる。
だから、本当に問うべきなのは、その人が自閉的行動を起こす理由である調整不全は何なのか?ということです。つまり、その人は何に困っているのか、ということ。
相手の困りごとを無視して、自閉的行動を奇異な行為で片付けるのは、目の前の人をちゃんと受け止めていないといえます。
この引用の後、具体例が出てきます。
何度も同じ質問をする常同行動を無視するのは、好ましくない行動の「消去」として、ひとつの方法として取り上げられる本も目にします。
しかし、著者は行動よりも、本人に目を向ける。困りごとに目を向ける。それは、母親がどこにいるか分からない不安。それをクリアにするための視覚支援を充実させたら、質問は減った。
私たちは、「なぜ?」と問わねばならない。問い続けなければならない。行動ではなく、人格に目を向ける。その人にフォーカスをする。
難しい、極めて難しいけれど、我が子へのスタンスとして何度も反芻して胸に刻みたいです。