死と憂鬱
20代前半の頃だったと記憶している。
この本のタイトルに惹かれたのは。
思い出したきっかけは、おなじみの『スポーツが憂鬱な夜に』。
当時一ヶ月以上かけて読了し、今もお気に入りの本棚に鎮座している。
だが自分でもびっくりするぐらい内容が思い出せない。
死生観との出会い
自分が死を意識するようになったのは、25歳頃だったと記憶している。きっかけは尾崎豊にどハマりしたこと。尾崎豊が26歳という若さで死んだ事を知り、同年代の自分はショックを受けると同時に一種のロマンチシズムを感じた。
それまで自分は死を意識したことはなく、死と向き合うのは病気になったり、定年後であったり当分先の事だと思っていた。
燃えながらに死にたい
死について考えるようになってから、自分は長生きはしたくないと思っている。できたら「燃えながら」死にたいと。
「燃えながら」とはどのような状態なのだろうか。
情熱的で、衝動的で、刹那的で、孤独に。
尾崎豊のようなイメージ。
15歳で衝撃のデビュー。
などなど、好きな歌詞は沢山あってキリがない。
自分の気持ちに対して常に正直で、素直。
最期は不可解な死で、26歳という若さでこの世を去った。
当時2歳だった自分はもちろん何も覚えていない。
死と生は等価
こうして「死」を紐解いていくと、必ず「生」にぶち当たる。
私は尾崎豊の「死」に憧れているわけでなく、「生」に憧れている。
「燃えながら」死にたい、のではなく、「燃えるように」生きたいのである。恥ずかしい話ではあるが、それに気づいたのはつい最近のことだ。
ふと希死念慮を抱くことがある。
自分1人いなくなっても世の中は何も変わらないよね。
だから死んでもいいんじゃない?と。
最近も毎日のように考える。
先日、ランナーとしても経営者としても成功している先輩とジョギングをしながらふと気づいた事がある。
先輩から「今の状況だったら、もっと困難な事にチャレンジしていかないとダメだよ」という趣旨の事を言われた。
その言葉を聞いて自分の中でモヤモヤしていた事がクリアになった。
自分が死について考えてる原因は、生と正面から向き合っていないからではないか。つまり、生から逃げる手段として死を捉えているのではないか。
過去の自分の思考の変遷を振り返っても概ねこの傾向があるように思う。
まずは自分の生と正面からがっぷり四つで向き合う必要があるように思う。
もっと情熱的に生きろ
死は生の対岸にある。
対岸は「青く見える」。どんなに楽なんだろうと想像する。
今目の前で起こっていることに蓋をしたい。
そんな衝動が自分を「希死念慮」に導くのだと悟った、33の夏。
もっと情熱的に。
もっとまっすぐに。
もっと不器用に。
生きろ!ということですね!
最後まで読んでいただきありがとうございます。
また次回に。