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親になってはダメな毒親22…母の毒の原因は祖母のわがまま

母方の祖母は歴史の教科書に出てくる誰でも知っている有名な戦国武将の子孫だそうで、子供時代は裕福だった。
世界大恐慌の際、銀行に預けていたお金が紙くず同然になった事で、
一気にお金に困窮
一家は仙台に移り住み下宿屋をしていた。
その下宿をしていたのが東北大学の学生だった祖父だったそうだ。
祖父は元々は東大の理学部数学科に入学したが、人間関係で苦労したとかで一日で退学して東北大学理学部数学科に入学し直したそうだ。

将来有望なお金持ちになりそう!と言う匂いを嗅ぎ着けて祖母は祖父に言い寄ったそうだ。その時祖母は高等女学校に通う18歳くらいの頃。
そこで、母親を身ごもった。
その当時珍しい出来ちゃった婚ってやつだ。
大学生の祖父と十代の祖母!
祖母の実家である下宿屋で新婚生活を送ったそうだ。
たぶん、自分勝手にふるまえる実家で上げ膳添え善の毎日だったようだ。

祖父は、朝鮮(日本占領区)で生まれた。その後、母子で熊本に戻り、
東京に移り住み、師範学校で教員をしながら母一人子一人で育てられたそうだ。
非常に頭の良い、家事も仕事も完ぺきにこなす明治気質な女性だったそうだ。当時、女性が仕事を持つこと自体珍しい時代で、女一人で子供を立派に育て上げるなんて並大抵な事では務まらない時代だ。

息子の祖父が大学を卒業したのが28歳くらいの頃。
戦争時代で戦局激しくなってきた時代で予科練の教師の職を得て上京した。
その時 祖父は母、母の妹と祖母を連れて曾祖母の所に行き、初顔合わせだったそうだ。
その時そんなリアクションだったのか?は想像に頼るしかない。

当時の結婚の形態とは程遠いもものだったに違いない!
結婚前の挨拶、両親同士の顔合わせ、結婚式などの順序と言うものを土替えした形で曾祖母もびっくりしたのではないかと思った。

常識人で明治気質の曾祖母と裕福な育ちで甘やかされたわがまま娘の祖母との生活はそれはそれは大変だったそうだ。
毎日、嫁姑戦争さながら・・・
テレビドラマの嫁姑の修羅場よりもひどい状態だったそうだ。

曾祖母は、一家の大黒柱である息子である祖父には安心して仕事の打ち込めるように家の中の修羅場をひた隠しに隠していたことだろう。

ろくに家事も子育てもしないで遊ぼ惚けている祖母に対して、文句も言いたいところだろうが、全く聞く耳を持たない祖母!

曾祖母が代わりに家事や子育てをするようになったのは当然な事だろう。
地域性も強い時代
そんな祖母の行為など近所にも筒抜けだったろう。
母は曾祖母から家事を教えられ、四歳くらいから家事全般をさせられていたそうだ。

家事をこなす母を横目に、
近所から感心な娘さんだねと褒められると、祖母は自分が非難されたかのように受け取り、
「あんたのせいで、私は母親神格だと言われた!あんたばかり良い子ちゃんやっているんじゃないよ!」と叱られたそうだ。

祖父は数学や仕事しか関心がなく、家庭のいざこざに対しては口出ししなかったそうだ。

戦局がいよいよ激しくなり、曾祖母、祖母、母たち姉妹は岩手県に疎開した。
田舎の家で間借りして生活をして、食料も分けてもらうようなみじめな生活だったそうで、一家に1個の卵だったりして、祖母は母の妹にあげるように強要され1個も食べられなかったと母は話していた。

この様に、曾祖母と祖母の嫁姑戦争の中、母はその家ではいつも貧乏くじを引いて育って、
母の気の強い、だれでも戦闘モードで喧嘩を売る性格が形成されていったのだろうか?

常に争いの環境の中、「何事もトップであれ!」と言う曾祖母の教えと家事と育児を放り投げて遊び惚けているくせに、世間では良妻賢母として見られたい為、都合よく扱われ、近所の争い事を母が謝りに行かされた事もあったり家庭の温かさ、安らぎとは程遠い家庭環境だった。

妹の叔母に恋人ができて、結婚したいと申し出た為、
物事に順序と言うものがある!と一家の主である祖父の考えで
姉である母がその為に結婚させられたという話も聞いた。

母が結婚して、私が二歳のころ叔母が出来ちゃった婚で結婚し、叔母一家が祖母の家に入り一緒に暮らした。

曾祖母が脳卒中で亡くなり、
私が17歳のころ、祖父が肺がんで亡くなった。

自分の行動を縛る二人がいなくなった事で、祖母は更にわがままになり
遊び惚ける毎日になった。

遊び人の祖母の面倒を見る叔母夫婦。

ずいぶん、振り回され苦労したと叔母が話していた。

そんなある日、叔父が大量の血を吐いて東京の大病院に入院した。

その時、祖母、叔母叔父一家は埼玉に住んでいて、叔母は叔父の病院へ片道一時間半もかけて家の事、祖母の面倒と叔父の看病に当たった。

こんな大変な時、私の実家は私たち姉妹は結婚して家を離れ、両親二人で暮らしていた。
そんな時、せめて祖母の面倒くらいは・・・そんな思いではなかったか?
それをそばで見ていた叔母の子供たちはそ思っていたので、
こんな時も知らん顔の私の両親にかなり恨みを持っていただろう。


そんな生活を一年半ばかり続いたある日、祖母の発した一言が叔母の怒りが爆発した。
「誰かさんのせいで私は遊びに行けず、辛い思いをさせて・・・」
叔父が病気になった原因は誰にあるんだ!こちらがこんな大変な時に自分の事が優先!どこまで自分勝手でわがままなんだと!!

祖母は施設に入る事になった。
数年も音信不通の母に連絡をしたらしいが、電話をガチャ切りされて埒が明かない状態。

そんな時、叔母と私のメールでいろいろやり取りをした。

自分の親を施設に入れた事に後ろめたい気があった為、自分の気持ちを整理したいのと、事実を私に知ってほしい!それを私のお母さんにも知らせてほしいという思いもあったんだろう。

しかし、そんな様子に従妹たちは「あんな家の人とは一切関わるな!」と
話していた。
自分たちの家をめちゃくちゃにしたのは、私の父親だそうだから・・・
祖母が父に言い寄ってモーション掛けたのに、
きっぱりと断った事が、ずっと根に持って父を恨み、叔母一家に恨みつらみを話していたようだった。

私たち姉妹と母の妹の子供たちである従妹との関りは全くなかった!一緒に遊んだ記憶もなかった

施設に入り10年ほど後、父が亡くなった
その頃、祖母から頻繁に母に連絡が入り、なぜ私に会いに来ない!と電話で大声で暴言を吐かれ、頻繁に施設に行くようになった。

と言うのも、叔母は祖母の事をすべてほったらかしにして、しかも連絡も取れない状況になった事に不服に思い、
裁判所に訴えた。
明らかに悪意のある行為という事で、大金を請求されたのが祖母が入っている施設に顔を出すようになったきっかけになった

祖母が入所していた施設は自由に外出が出来る所らしく、小金を沢山持っている祖母は頻繁に遊び歩いていたそうだ。
その時、利用していた専属のタクシーにお金をぶら下げて暴言を吐いてさんざん振り回したそうで、タクシー運転手もあきれ果てて「もう、運転の契約を打ち切りたい」と断られたそうだ。
それくらい、周囲の人などお構いなしの自分最優先の自己中の人間だ

次第に認知症の兆候が見られ、認知がどんどん進み、成年後見人に財産の管理をお願いする様になったら、母は一度も祖母のところへ行く事がなくなり、その間、誰もお見舞いに来る人がいなく、祖母の兄弟、知り合い縁者はどんどん亡くなっていった。

周りの事が全く分からなくなり、寝たっきりになったまま施設で過ごた。
成年後見人の方が亡くなった時、祖母はその施設から出された。
認知症のまま10年以上、お金の為に生かされた!

祖母の家に引き取ってもらおうと思ったが、祖母の家を管理している叔母はそれを断った。
仕方なく、私の母が祖母を引き取って仙台まで連れて、実家近くの施設に入所してほどなく亡くなった。御年106歳!

お葬式は祖母の家で行うと考えたが叔母はそれをも断り、
仙台市で葬式、火葬した後、お骨は祖父のお墓に・・・と思ったがそれをも叔母は断った。

結局仙台市共同墓地に埋葬した。


祖母の自分勝手、わがまま放題の行動が祖母の娘の家庭までも崩壊させ、子孫までも影響を及ぼさせた。
お金で周囲を振り回してきた人生、
最後はお金に利用され、お金によって見捨てられ、骨になってもたらい回しにされてしまった。なんともみじめな最期だ。









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