禅、ヴィパッサナー、時々不二一元論②
前回、禅とヴィパッサナーについて本質的な話を伝えるため、ネルケさんの文章を引用しつつその坐禅体験をまとめました。最初にその体験を図にまとめたものを再掲します。今後この図を基本図として他の教えや実践法と坐禅を比較していくことにになります。
ネルケさんにとって坐禅というのは哲学的な内省から、今ここにある身体へと意識を引き戻すような体験でした。
そしてネルケさんはこのようなご自身の宗教的原体験を語られた後、その体験と他の思想との比較に入ります。まず比較対象として挙げられるのがラマナ・マハルシです。ちょっと引用してみましょう。
なぜここでラマナ・マハルシが出てくるのか、疑問に思う方もいるかもしれません。ここは文中では明言されていないので推測でしかないのですが、大乗仏教思想あるいは禅思想に対する批判に先回りして答えている、ということではないかと思います。というのも、いわゆる原始仏典を研究する近代仏教学の立場からはよく大乗仏教やそれに含まれる禅の一元論的な性質が批判されるからです。禅に含まれる一元論的な性質はおそらく中国の老荘思想を引き継いだものでしょうが、そういった性質を持つネルケさんの原体験(曹洞禅)とラマナの教え(不二一元論)を比較し、その違いを明確にすることで批判に応えていると言えます。
ネルケさんは以降の本文でラマナの教え、そしてその元となったシャンカラの不二一元論についてまとめているのですが、そこで強調されるのはその二元論的な性質です。非常に上手いまとめだと思うので本文を引用します。
これ以降の部分も含めてネルケさんの考えをまとめて、初めの図に加えたものがこちらです。
初めの図の縦軸に、思弁的な次元と超越的な次元が加わり、それに伴い「坐禅体験」の矢印の向きも若干変わっています。坐禅とラマナの教え(不二一元論)は対照的なものとして描かれています。
ここでネルケさんの言葉を借りつつ不二一元論について少し説明します。不二一元論は「今、ここ」の身体とも観念的な思考とも別のところに「真我」という超越的な認識主体を立てます。その視点から見ると身体的、認識的な次元も思弁的な次元も《仮のもの》に過ぎず、超越的な次元のみが真の意味で存在する《本当のもの》です。
少し議論を先取りすると、ネルケさんはそのような不二一元論に否定的な意見を持っています。ネルケさんに言わせれば不二一元論は一元論と言いつつ、超越的な視点を立てるという意味で一元論とはいえないものです。そして禅のような今ここの身体と心が遊離しない心身一如の一元論が本来的な意味での一元論だという主張を持っています。ここでは坐禅と不二一元論は明確に異なり(よって禅はたの大乗仏教思想のように不二一元論の変形であるという批判は成り立たず)かつ、不二一元論の持つような構造的な欠陥も克服しているという、坐禅の優位性や合理性を暗に示しています。
そしてネルケさんは不二一元論的な教えについてだけ批判しているのではなく、「仮のものを見破って、本物に気づく」という瞑想法、つまりヴィパッサナーの実践についても暗に批判しています。とはいえネルケさんは冷静で、単純に不二一元論とヴィパッサナーの同一性を示すだけでなく、その違いも明確に示しています。引用します
ただし、ここでのネルケさんの「瞑想中に気づく無我」の説明は教科書的なものなのですが、実践者の目線でみるとかなり微妙です。なぜならばヴィパッサナーの対象をわざわざ「私ではない」と確認するように行うことは決してないからです。これ以降もネルケさんは教科書的な知識として初期仏教の中心概念をまとめていくのですが、ヴィパッサナー実践を思弁的な次元での実践と考えているように感じます。
しかしこのような見方は端的に誤りです。
ネルケさんの考える瞑想と坐禅、そこに私が考える実際の瞑想(ヴィパッサナー)を図に加えるとこんな感じになります。
ネルケさんの理解とは異なり、瞑想(ヴィパッサナー)実践は徹頭徹尾、認識的な次元で行われます。更に言えば通常の意識の今、身体的な領域より「前」つまり前意識的な認知領域で行われるのが本来的な意味でヴィパッサナー(法随観)です。
次回はこの本来的なヴィパッサナーに関する説明とともにネルケさんの誤解(そしてこれは仏教を知らない全員が持っている誤解でもある)を解説するとともに修正していきたいと思います。
読んでいただきありがとうございました。
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