悲劇
昨日も雪道で派手にすっ転んでしまった。雪で覆われた公園の階段を踏み外したのだ。一瞬「死んだかな」と思う。階段から転げ落ちるなんて、サスペンスドラマの被害者みたいな死に方じゃないか。まぁ王道といえば王道かしら、なんて考えが走馬灯のように駆け巡る。
ーーが、私は生きている。どうやら今回も無傷のようだ。(自慢の骨太レスラー体型のおかげだな。よし!)
立ち上がって体中の雪を払うも、顔を上げる勇気はない。すぐそばに人がいる気配はないが、人間の視力はだいたい4キロ先まで見えるのだそうだ。いったいどれだけの人が私が転ぶのを目撃してしまったことだろう。(ある意味、死亡) ーー逃げるように立ち去る。
毎朝、朝食を食べながら海外のラジオ番組を聴いているのだが、今朝はたまたま「なぜ人前で転ぶと恥ずかしいのか?」というテーマだった。(余計なお世話であるw)
「なぜ転ぶことは恥ずかしいのか? そしてなぜ人が転ぶと我々は笑うのか?」ーーそんなの簡単だ。転ぶことは「悲劇」なのだ。悲劇を乗り越えるには「笑い」が必要だ。
ラジオを中断して、今日も散歩に出る。昨日のルートは避けるべし。除雪された大通りを歩こう。
ドラッグストアから、買い物袋を下げ、いかにも「セレブ」なお婆さんが出てくる。80代くらいかな。ファッショナブルで惚れ惚れするほどかっこいいけれど、さすがにこんな雪道ではヒールの足下が危なっかしい。見ているほうがひやひやする。お金はあるだろうに、買い物なんて誰かに依頼してしまえるだろうになぁ。
ーーそんなことを考えてすれ違う。
いや、お金はあるんだろうけど。きっとひとりぼっちなのだ。それで、たいして入り用でもない日用品の買い出しに、フル化粧をして、毛皮のコートを着て、ヒールを履いて、わざわざ出てくるのだ。さみしくて、出てくるのだ。
けれども結局、レジの店員とひとことふたこと交わすだけで、それ以上のことは何も起こらない。それどころか、足下の悪さに転ばずに家に帰るのが精一杯だ。
私はなぜだか振り向いて、道路を横断して行く老婆の後ろ姿を見つめる。きっと無事に自宅の玄関に入ったあとで、コートの汚れなんかをチェックしたあとで、あのお婆さんは思わず、自分のことを笑っちゃうんじゃないかな。そんな気がした。
生まれたら、死ななきゃいけない。そのくせ死ぬまで働かされたり、愛する人に先立たれたり、我々の人生は悲劇に満ちている。笑わなきゃ、やってやれないのだ。
おそらくどんな生き物でもそれぞれに快不快を感じ、怒りも表明するんだろうが、「笑う」のは、ましてや不幸を笑いに変えられるのは、人間だけである。
失敗したとき、落ち込んだとき、自分のことが情けなく思えるとき、「そんなのなんでもないよ、大したことじゃないさ、あはは」そう笑い飛ばしてくれる仲間がいることは、幸いだ。
残念ながら、私にはそんな救世主はいない。きっとあのお婆さんにもいない。ひとりでぐっと悲劇に浸ってナルシストぶるか、あるいは少し落ち着いてきたなら、自分で自分を笑ってやることだ。「自虐」というとなんだかみじめに感じる人もいるかも知れないが、要は自分を客観視することである。自分にとっては救いがたい悲劇も、他人から見ればなんてことない喜劇だったりする。例えばシェイクスピアにしても私は、彼は「喜劇」を書いたのだろうと思っている。登場人物たちにとっては絶望的な状況であるが、思い込みだけで惚れたり腫れたり毒を飲んだりする彼らのバカさ加減に、観客は笑わずにはいられない。
もしもあなたが今、取り返しの付かない失敗に思い悩んでいるなら、分別くさい顔をしていないで、さっさと笑い飛ばしてしまうことだ。どうせいつかはそうしなければいけないのだから。
雪道であろうと、でこぼこ道であろうと、順風満帆な道であろうと、我々に出来ることは、「関節を曲げる、伸ばす」その程度のことでしかない。赤ちゃんだろうと、老婆だろうと、セレブだろうと、無能だろうと有能だろうと、今あなたの目の前にいるパワハラ上司だろうと、やってることはみな同じだ。我々が生きている間に行うのは、(目的遂行のために) 体を曲げたり伸ばしたりするだけなのだ。笑わずにいられるかっての。見てごらんよ、偉そうなあいつを。曲げる、伸ばす、曲げる、伸ばす・・・。それだけだ。どんなにかっこつけたって、それ以上のことは人間には出来ないのだよ。