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でたらぬ・十海夜牛 #ノトコレ版

でたらぬ

 冬は、心の奥の方がそこはかとなくほうっとしてくる。何やら所在無いものが、拠り所を得たようで。
 夏は騒がしい。
 秋は物悲しい。
 今の静けさが良い。寒い寒いと首をすくめているうち、春に向かっていく。
「先生、先生」
 山茶花の向こうに見慣れた顔一つ。
 急いできたものとみえ、この寒空に平次は汗ばんでいる。
「山から客人が降りてきましたぜ」
 痩せぎすの平次が、ゆっくりと間を合わせながら歩を進める。私の脚が腫れているのを慮(おもんぱか)ってくれているのだ。
 いつもは「事件だ大変だ!」と水鉄砲を撃ちながら、道の真ん中を駆けている。中味は、ただの水。目に入ったと慌てる通行人がいるが、心配ご無用。
 蝉形平次(せみがたへいじ)は気のいい男なのである。

「ご無沙汰しました、斎藤先生」
 平次の屋敷に着くと、酒宴の支度をしていた若者が振り返った。
「おう、源(みなもと)どの。よう、降りてこられた」
「他人行儀な呼び方はお止めください」
 源義牛(みなもとのよしぎゅう)が、夕雲を背に白い歯を見せて笑う。
「ちょっと脚を痛めているもので、失礼するよ」
 私は座布団で背もたれをこしらえて座った。
「どうなされたのです」
 代わりに平次が答える。
「いや、さすがの斎藤象三(さいとうぞうさん)先生も、蝮(まむし)にかまれちゃあねえ」
 呵呵(かか)、呵呵。
「やや、わたくしも久々に町に参りまして、浮かれついでに欄干(らんかん)を跳んでおりましたら、このザマ」
 腕まくりをする義牛に大きな青アザ。
 呵呵、呵呵。
 大晦日の夜が始まる。
 平次の顔が赤いのは、酒のためか、囲炉裏の火に照らされているためか。
「あっしは、なにせ読み書きもできないし、日頃の行いだってほめられたもんじゃない。でも、先生にガツンと叱られたことがありましたでしょう。お前、自分の頭でものを考えないでどうするんだって。名前に負けるような、でたらめな生き方をするんじゃないって。それがいたく心に沁みたんでございますよ。で、やっぱり学問をしないと駄目だと思いましてね」
 平次の指さす先に、大小不揃いの紙が積まれていた。みみずののたったような黒い跡。
「平仮名の稽古を始めたんでございますよ」
 そのうちの一枚をとって、私に寄越す。
「これなんて、よく書けてますでしょう」
 でたらぬ。
「め、がちょっと気張りすぎたようだな」
「こいつはいけねえ、とんだでたらめだ」
 呵呵、呵呵。
「冷えてきたねえ」
 遠く鐘の音が止む頃、私は火から薬罐(やかん)をおろした。
 三人分の湯たんぽをこしらえて、煎餅布団の中へ突っ込む。
 あったかいってのは、灯りのようなものでございますね。
 平次が呟き、義牛が頷き、私は確かに湯たんぽが金柑色に発光するのを見たと思った。

 

十海夜牛

 春は、心の奥を掻き乱して通り過ぎていく。
 桜の花びらが風に翻弄(ほんろう)されるように。水面(みなも)に浮かぶ花筏(はないかだ)はいずこへ辿り着くのか。
「雀が花を散らしますなあ」
 源義牛は、見事な足さばきで足下の桜を踏まぬように川べりを行く。それを感嘆の面持ちで眺めながら、私もゆっくりと足を運ぶ。

 平次から小宴を催したいので是非、と招きを受けた。
「おしなかき とうみようし」
 義牛がその手紙というか、書きつけを届けてくれた折、二人で途方にくれた。
「まことに不可思議な」
「先生にもお分かりにならないとは」
 読み書きのできなかった平次が、一念発起して平仮名の稽古を始めたのは雪の頃であった。かなり、上達したのが見てとれるのだが。
 私はしばらく考え込んで、筆をとった。
 お品書き 十海夜牛。
「は」
「かつて『五十海(いかるみ、注)』という地を訪れたことがある」
「ははあ」
「五を抜いたのは謎かけであろうか」
「この義牛は『夜牛(やぎゅう、注)』の地を踏んだことがございまする」
「修行していた頃かね」
「奥州におりました折に、ちょいと散歩がてら」
「海が十もあるのかね」
「いえ山奥で」
 どうにも埒があかぬ。まあ行けばわかろうから。
 何しろ、蝉形平次は気のいい男なのである。「事件だ大変だ!」と水鉄砲を撃ちながら、道の真ん中を駆けている。通行人の着物を濡らしても、目に入っても、心配ご無用。中味は、ただの水である。
 そんな男が怪しげなことをするとも思われぬ。

「ようこそ、おいでくださいました」
 平次が大仰に出迎える。
 囲炉裏に湧いた湯を、ちょっとばかり置いて温度を下げ、煎茶を淹れ。
 茶碗の傍には桜餅。塩漬けの葉、うす紅色の粒々、その奥にこし餡。
「これはこれは、道明寺ではないか」
 私は驚きと喜びの混じったため息を漏らす。
「このあたりじゃ、桜餅といえば長命寺(ちょうめいじ)で。いやあっしも、生まれてこのかた、これしか知らなかったんでございますよ。ところが道明寺ってものがあるって言うじゃありませんか」
 平次は茶を飲みながら続ける。
「この季節になると斎藤象三先生も義牛も、ちょいと寂しそうな顔をなさるのは、もしや道明寺を恋うてのことではないか、と思いやしてね。菓子屋に頼んでこさえてもらったんでございますよ」
 義牛の目には涙。
「叡山にあった折も、奥州にても、これが春の便りであったよ」
「美濃が目の前にあるようだ。平次よ、かたじけない」
 お薄(うす)ではなくて煎茶というあたりもまた、憎い心配りではないか。
「それにしても、おしながきを届けましたのに、こんなに驚かれるとは思いませんでしたぜ」

 嗚呼、とうみようし。
 どうみようじ。

「てんてんが、留守をしていたようだな」
「こいつはいけねえ、へんちくりんな牛になっちまった」
 呵呵(かか)、呵呵。

「やや、平次、葉まで食らうのか」
「あたりめえよ義牛、この香りと塩加減が餡に絡むのが妙」
「それではお主、柿の葉寿司も」
「食えるもんなら食ってみやがれ」
 呵呵、呵呵。

 おや、花散らしの雨が。
 ひとときののち、空が明るさを取り戻すと。
 うわあ。
 平次が歓声をあげ、義牛が目を輝かせ、私は確かに初虹の中に桜餅の色があると思った。

〈了〉

注釈
五十海: 静岡県藤枝市
夜牛:  秋田県湯沢市


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