教養の定義論

twitterでこのようなツイートが伸びていた。

「大人になると男女で2人で会うと酒飲むかセックスしかすることない」ようにならないようにするのが教養だと思ってて、教養あるもの同士だと2人で会っても延々と文学や宗教、哲学や空想、政治や文化やらの話をし続けることが出来る。」

これが火種となり「教養とは何か」というテーマを含んだ大喜利が始まった。とはいえ、そもそも教養という言葉は定義が難しく、立場もバラけがちだ。自分の教養観と重なる発言はごくわずかだった。

自分はというと、先日『教養の書』を読み、noteにまとめたところだ。そのあとも少し考えが進み、ようやく内容が自分のものになった感がある。先日の記事にもちょうど追記をしたところではあったのだが、理解をさらに深めるためのアウトプットをしようと思う。

まず、『教養の書』でなされた教養の定義を自分の言葉で説明しなおし、少し批判的に吟味する。その上で、ツイッター発言から垣間見える「教養」定義の何が問題なのかを自分の言葉としてまとめてみたい。

『教養の書』における定義

『教養の書』では、多大なページ数を割いて教養を定義する。書籍での定義は、この文章の注に引用しておこう(※)。

自分なりにエッセンスとなる要素を整理すると、以下のようになる。

ネットワーク化された知識:トリビア的・暗記的な知識ではなく、大きな座標系に位置付けられ、互いに関連付けられた豊かな知識
闊達さ:自らの知識を絶対視せず、必要があれば自分の意見を変えることをいとわない姿勢を持つこと
市民的器量:社会の担い手であることを自覚し、公共圏における議論を通じて、未来へ向けて社会を改善し存続させようとしていること
自己形成の姿勢:上記のような教養を持つ存在になるべく、自らを律し高めていこうとしていること

まず注目すべきは、単なる知識量にとどまらず、「闊達さ」「市民的器量」「自己形成の姿勢」といった、知に対する姿勢そのものも定義に含まれていることだろう。この時点で、ネットで見かける定義とは大きな違いがあるように思える。

加えて、「知識」の内容に対しても注文がある。トリビア的・暗記的な知識では教養とは認められないのだ。このような知識への批判としては、巻末の注にあったでセネカの『生の短さについて』からの引用を提示するのがいいだろう。

「今言った同じ人物はこんな話もしていた、メッテルスは、シキリアでカルターゴー人に勝利したあと、分捕った百二十頭もの象を自分の乗る車の前に引き連れて凱旋行進したローマ人で唯一の人である、あるいは、古人のあいだでは属州で領土を獲得したときにのみ拡張される慣わしであったポーメーリウムを拡張したローマ人で最後の人はスッラである、と。その類の知識が、誰の迷妄を正し、誰の過誤を減らすというのであろう。誰の欲望を抑えるというのであろう。誰をより勇敢な人間にし、誰をより正しい人間にし、誰をより自由な人間にするというのであろう。

単なる情報の断片を寄せ集めたような知識に対し、実に辛辣である。

教養として認められるような知識の在り方とは

では、「大きな座標系に位置付けられ、互いに関連付けられた豊かな知識」とはどのようなものだろうか。

後半の「互いに関連付けられた豊かな知識」の部分はすぐに意味が取れるだろう。書籍の例を頼ると、「ボストン茶会事件はいつ?」と言われて年号を即答するにとどまるのはトリビア的知識である。一方で、「互いに関連付けられた豊かな知識」の持ち主にとっては、ボストン茶会事件はアメリカ独立と関わる出来事であるし、現代世界の在り方ともつながるものである。

問題は前半部だ。「大きな座標系に位置付けられ」た知識とはどのようなものだろうか。この部分について、書籍をじっくり引用しながら説明すると、ちょっと読む気が削がれる文章になりそうだ。

自分なりにまとめてしまうと、「大きな座標系」というのは、「個人がより善く生きるため、社会をより善い場所にするために積み上げられた知の体系」ということになる。

まだちょっとわかりづらい。具体的に説明しよう。

個人としてより善く生きていこうとするなら、どうしても向き合わざるを得ない普遍的な悩みや問いが存在する(以降、普遍的テーマとする)。「正義とは何か、生きる意味とは何か…」といったものが代表例だ。

あるいは、社会をよりよい場所にしていこうとするなら、例えば「現在の社会はなぜこのようになっているのか、より望ましい政治の行い方はないのか…」といった普遍的テーマと向き合うことになる。

このような普遍的テーマに対し、過去の人類もまた切実に答えを求め、意見を戦わせ、その記録を紡いできた。それは、直接的には哲学書や論文という形で、厳密な議論として継承されている。加えて、文学や映画、あるいは演劇などにおいても普遍的テーマがたびたび表現され、作者なりの答えが登場人物や物語の展開によって描写される。

これらを通じた「知のリレー」の産物として、例えば現代では人権や民主主義があって、私たちは過去の人々が過ごした社会よりもマシな社会を生きているわけだ。

この、普遍的テーマに関して自ら切実に悩み、知のリレーの成果を参照しながら深く考えること。その過程に身につく知識こそ、「大きな座標系に位置付けられた知識」なのだ。

むしろ、教養人たちが哲学や文学の重厚な知識を身に着けているのは、普遍的テーマに対して切実に悩み、考えたことの結果に過ぎない、とみるべきではないだろうか。

『教養の書』の定義について思うこと

個人的に、『教養の書』に書かれた教養の定義はとても納得のいくものであった。ただ、その描写の仕方には気になる部分がある。

前項に書いたように、教養というものにはどうも「普遍的テーマに向き合い、知のリレーを参照しながら考え、学んでいく過程で身についてしまうもの」という側面がある気がするのだ。というか、闊達さや市民性といった知に対する態度でさえ、「身についてしまうもの」の枠に収まりうる。もう、上の太字部分をもって定義としてしまってもいいのではないだろうか。

しかし、『教養の書』での定義はボリュームのあるもので、要素ごとにしっかりと説明しようとするものだ。教養を「意思と行動によって身に着けようとするもの」として記述しているように見える。

これは、著者が大学の学部教育について、以下のようなスタンスを取っているからかもしれない。

大学の4年間の教育は、「専門家育成をチョットだけ」ではないそれ自体完結した目的をもつべきだ。そうでないと学生が気の毒じゃないだろうか。その目的こそ「教養の涵養」ではないかと思う。

教養というものを分解して丁寧に記述し、学生の到達目標とする。教養の書における定義には、そのような目的があったのかもしれない。

ありがちな教養定義のマズい部分

さて、最後にtwitter上で目撃した定義について、私見を述べていこう。個人的に合わないなぁと感じた定義には以下のようなものがあった。

定義A「知識量が多いこと」
定義B「哲学や歴史、文学や芸術といった、高尚ジャンルの知識の詰め合わせ」
定義C「エリート同士が互いを識別するタグにすぎない」

そもそも「教養があると高尚なトークができる」というツイートをきっかけに出てきた発言がもとになっているせいか、特定の話題に関する知識というニュアンスが前提になってしまっている。

定義A「知識量が多いこと」について
これではトリビア的、クイズ的な知識を持っているだけの人も含まれてしまう。教養の意義がかなり陳腐化されていると言えるだろう。

定義B「哲学や歴史、文学や芸術といった、高尚ジャンルの知識の詰め合わせ」について
この定義を採用している人が多数を占めているように見える。実際、教養ある人というのは哲学や歴史、文学や芸術といったジャンルに詳しいものだ。しかし、自分の考えでは、それは普遍的テーマと向き合い、知のリレーを参照するなかで結果として身についたものに過ぎないのである。

ビジネス本などで、「海外のエリートと会話するときには、当然のように哲学や文学、歴史の知識が求められる。恥をかかないように教養をつけておこう」などと書かれているのを見たことがある。明らかに根本的な要素が欠如している。普遍的なテーマへの関心である。

そのような態度で学んでも、それこそトリビア的な知識で貧弱な武装をするだけの結果となり、無教養が露見するのを5分先延ばしにする程度の効果しかなさそうだ。

定義C「エリート同士が互いを識別するタグにすぎない」について
自称教養人が行うインテリしぐさへの反発として、一定程度は理解できる。しかし、これは定義Bを前提にしたうえで、その習得目的が内輪ネタ的利用であると断定している。痛罵すること自体が目的で、当人もおそらく論理的とは思っていないだろう。

教養人どうしが哲学や文学といったテーマを話題に選びがちなのは、単純に普遍的テーマについて話すことが楽しいことであり、その会話を膨らますうえで哲学や文学が妥当な素材だからだろう。

それは、アニメ好き同士が監督や声優の具体的情報を交えて会話を膨らますことと、大きな違いはないのだと思う。


最後に、重要な補足を2点

①自分はかなり教養が足りない側の人間であることを自覚している。結構な年齢までボケーっと生きてしまった…

②教養について「普遍的テーマに向き合い、知のリレーを参照しながら考え、学んでいく過程で身についてしまうもの」と自分なりに定義した。短い言葉に重要な要素を込められた気がして満足しているのだが、もちろん他のプロセスで教養を備えることも可能だろう。

「読書好きである」ということが先に来て、普遍的なテーマと出会い、真摯に考えるようになっていくというルートはいかにもありそうだ。

そして戸田山先生が切望しているように、大学教育が良くデザインされたものであるならば、学生を「教養する」する主体へと一歩一歩、育てていけるのかもしれない。そうあってほしい。

※ 『教養の書』でなされた、教養の定義は以下のとおり

【定義】われわれにとっての教養とは、「社会の担い手であることを自覚し、公共圏における議論を通じて、未来へ向けて社会を改善し存続させようとする存在」であるために必要な素養・能力(市民的器量)であり、また、己に「規矩」を課すことによってそうした素養・能力を持つ人格へと自己形成するための過程も意味する。
ここでの素養・能力には、以下のものが含まれる。①大きな座標系に位置づけられ、互いに関連付けられた豊かな知識。さりとて既存の知識を絶対視はしない健全な懐疑。②より大きな価値基準に照らして自己を相対化し、必要があれば自分の意見を変えることを厭わない闊達さ。公共圏と私生活圏のバランスをとる柔軟性。③答えの見つからない状態に対する耐性。見通しのきかない中でも、少しでもよい方向に社会を変化させることができると信じ、その方向の向かって①②を用いて努力し続けるしたたかな楽天性とコミットメント。

この記事が参加している募集