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イタイケな老獪さ―蓮實重彦

イタイケな少女?

 魂が打ち震えるような感動をエチカとして生きること。蓮實重彦にとっての生のスタイルの要諦はこの一点に尽きる。同じことを遭遇体験としての感動というふうにも言いあらわすことも可能だろうが、だとすれば、それは批評体験と同義である。蓮實にとっては、批評は倫理と重なるものとしてあった。既定の制度の図式をなぞるのではなく、制度的な環境の単なる従順な模倣者を演じるのでもなく、醜悪な老人をあざ笑うかのように、制度を飛び越えてゆくおきゃんな少女ののびやかな運動感が重要視される。「批評は、その濃密な環境にうがたれるあるかないかの間隙をぬって、存在を垂直に貫く運動なのである」(「映画と批評」)。蓮實が思い描くところの批評は、既得権益からは限りなく遠い、革命を夢見る青年兵士の無垢を身にまとっているかのようだ。

 批評は存在しない。批評とは、事件として生きられる体験だからである。だから、たとえば創造は批評の同義語たりうるだろうし、変化、運動もまたその資格を持っているはずだ。あるいは革命の一語を持ち出してきてもいいだろう。革命に主体などというものがありえないように、運動、変化、事件、批評も主体を持っていない。主体=客体といった関係が不意に消滅する瞬間に批評が、あるいは創造が体験として生起するのだ。それ故、批評とは、思考にとっては残酷きわまる一瞬だというべきだろう。そこで「知」は、際限もなく愚鈍化する。批評とは、この愚鈍なる残酷さが跳梁する時間ならざる時間、空間ならざる空間の体験にほかならない。その意味で、批評は愛に似ているかもしれない。

「映画と批評」

 批評と愛が一挙に結びつけられる。「批評は愛に似ているかもしれない」。この言葉は、批評家の言葉というよりは詩人の言葉だ。なるほど、たしかに、蓮實には詩人としての側面が十二分に備わっている。蓮實が偏愛する運動、変化、事件といった言葉は、詩の側に属する。ロマンティック乙女としての蓮實重彦!これはなかなか痛快な肖像だ。60年代のコントにおける中国人のようなぬーぼーとした風貌と吉田秋生登場以前の少女漫画のようなイタイケな少女イメージのむすびつきは相当に斬新である。けれども蓮實はベタに愛の側につくつくほど愛すべきおバカではなかった。彼の明晰な瞳には批評と愛の違いが見えすぎるほどよく見えていた。事件のような非日常的な時間が日常としての継続する時間としては成立するわけにはいかないのだから、またそれを記述する言説も物語という文化装置に支えられるしかないのだから、そうたやすくは、批評は「事件として生きられる体験」となってはくれない。「どれほどその言説から物語をそぎ落としたところで、書かれたものとしての批評は説話論的な構造にしかおさまりえないものなので、すべての批評は物語たらざるをえないといわねばならないだろう」。こうして蓮實の中のイタイケな少女は、シニカルな表情をおびることになる。

 おそらく、批評が愛と同義語であることをやめるのは、この瞬間だろう。愛は「文化」的な相貌もとりうるがそれじたいとして「自然」たりうるのに反して、映画は絶対に「自然」たりうることのない「文化」だからである。映画が映画としてあるためには、「知」そのものが凌駕されることの痛みを生産し続けねばならない。説話論的な構造に従属しつつ現在の体験を虚構化し、あるいは映画を撮り、あるいは文章を書くことで批評を裏切りながら完成させるという悲劇的な構図が必要となるのは、そのためである。批評は、物語に対する勝利を、物語に対する敗北によって完結するという、運命的な矛盾を背負ったいとなみなのだ。

「映画と批評」

 「物語に対する勝利を、物語に対する敗北によって完結する」という試み。ややこしくも複雑に見えるが、この文章が書かれた1980年前後にはこのようないとなみが倫理として受け止められていた(現在では、「めんどくせー」の一言で片づけられてしまう)。蓮實の倫理は、愛としての批評というイタイケさを擁護することを目指す。だが彼は直球的に詩を擁護するイタイケ少女のようにふるまいはしない。彼は「これは詩ではない。これも詩ではない」と詩ならざるものを潰していくことで、詩を浮かび上がらせようとする。それは老獪な姑の悪意の発動のようなふるまいである。

姑の悪意

 善意に満ちたイタイケな魂がふと弛緩したさいに陥りやすい過ちに、純粋幻想との戯れというやつが挙げられる。汚れた世の中の頽廃から遠く離れた無垢なるわたし(たち)という物語の快楽に、心地よく身を預けている少年少女らが、いかにも好みそうな挿話への無防備な批評解除のふるまいを、嫌味な姑のように蓮實はちくちくと責め立てる。

 明け方の海辺なんぞに一人たたずむ孤独な魂が、映画との無媒介的な遭遇を演じて、その遭遇の理想形態を、何ものにも汚染されない言葉で綴ってでもいけるといった思い上がり、そうした「制度」的な場からの抽象的な逸脱を、われわれはいやというほど知っている。出遭うこと、そしてその出遭いを語ろうとすることは、すでに「制度」化された欲望に身をまかせ、二重の混濁をうけ入れることにほかならぬのに、まるで映画と言語の存在が、視線と言葉の持ち主に微笑とともに身をあずける瞬間を夢想し、自分のものとはなりがたい事物と存在の旺盛な繁殖力がふと途絶えでもするかのような無節操な純粋幻想が、「本質」や「原理」や「構造」を、まるでクロード・ルルーシュが戯れるズームやスロー・モーションや逆光といった技法が捏造する映画のように、視覚化する作業に専念することになるのだ。

「『万事快調』隠蔽と顕示」

 「明け方の海辺なんぞに一人たたずむ孤独な魂」という言葉に三島由紀夫の横顔が垣間見える気もするが、とはいえ、それが三島であろうが他の誰であろうが特定することにさして意味はないが、直線的なファシズムあるいはマチズモが、蓮實の姑的悪意の視線のターゲットにされていることは間違いない。ここでいう「直線的なファシズムあるいはマチズモ」とは、「~である」というポジティブな思考のことを指す。それに対して、蓮實が対置させるのは、「~ではない」というネガティブな思考である。蓮實は「~である」という分節の暴力を、「~ではない」という否定形によって、ポジティブの力を無効化してしまう。

 かつてフランス文学者の澁澤龍彦は、蓮實の文章を評して「ないないづくし」と発言したことがある。そこでは積極的なことはなにひとつ書かれていないというのだ。本当は大切なこともきちんと言われてはいるのだが、澁澤の言う通り、蓮實の息の長いうねるような文章は、「~とはいえ」「~なのだが」「~であるにせよ」という接続詞を多用しつつ、制度の物語と同調するかにふるまいながら、結論をどこまでも引き伸ばし、ついには宙につられた自分自身の言説を崩壊させる、というややこしい演技を演じてみせる。そこで読者が目撃するのは、制度に従順な自分の言説は空っぽである、という嫌味を通して物語の敗北を露呈させることで、物語の隙間のような空間を救い出すという屈折した文化的パフォーマンスである。ネガティブの連鎖でポジティブなものを暗示する戦略とでも言ったらいいか。「~ではない」が連鎖することで「~である」がかろうじて浮かび上がってくる。

 こうしたふるまいに対しては、例えば、東浩紀からは「否定神学」の頽廃といった批判がある。対案を何一つ出さずにいる万年野党の頽廃であり、与党一強体制に貢献しているというのだ(東浩紀はそうした停滞を打破すべく、「一般意志2.0」や「観光客の哲学」といった対案を出し続けている)。まあ確かに東の言う通りで、現在の政治状況を見ていると、与党の揚げ足取りの時だけ野党は活気づき、選挙では負け続けている。与党としての技術や戦略を用意できない野党には、なにか政治家偏差値といったものに問題があるのではないか、と思うこともある。

 ところで蓮實の話に戻ると、蓮實は根本的に非マッチョで、プロ野球評論する時は草野進という女性華道家になりすましたりして、与党=権力=男性原理とはもともと相性が悪いのだ。蓮實の嫌味婆的批評は、権力を模倣する演技はするが、本気で権力の模倣にコミットしたりはしない。権力を権力者以上に精巧に模倣することで、権力の無自覚な暴力を映し出す鏡と化すという、老獪な技巧派批評が本領である。

権力の観察者

 人間が人間である条件は、権力、差別、虚偽といった諸々の文化的制度や混濁を免れて存在することなどありえないのだから、そうした不実な装置の犠牲者としての人間という悲劇(あるいは喜劇?)の現実的実情を、自堕落な楽天性を斥けて、しっかりと向き合うことを最低限の批評の資格と自覚することから蓮實の思考の第一歩は始まる。自分という存在の思考や感性や想像力が、意識、無意識のレベルを問わず、いかに権力に浸透されているかを見極めてみようとする試みがなされる。ミクロの政治学とでも呼べそうなそうした行為は、文化は中立的だとする誤解や欺瞞を認めない。権力に立ち向かうために、蓮實がとる戦略は、もうどうしようもなく権力的であることを免れない自分の恥部を容赦なく解剖することで、権力の意識的無意識的暴力および意図を先回りして、その鼻を明かし出し抜くことである。悪代官と民衆という水戸黄門的ベタなストーリーよりも、はるかに高度で実践的なふるまいかただ。権力の観察者たる蓮實重彦は、意地悪な姑のように権力装置の作動ぶりをおのが肉体で受け止める。

 「物語」は勝利する。権力構造や文化形態、あるいは時代や人種、さらには風土や習慣の違いを超えて、「物語」はきまって勝利するし、また勝利することがその唯一の機能にほかならない。

「物語としての法」

 権力者は、その統治空間の空間に説話論的空間を発見し、それを利用して統治を完璧なものにするのではない。説話論的空間の内部に権力者が抗いがたく捕捉されているが故に、その統治機構を維持する最善の手段として、「物語」を利用せずにはいられないのだ。あるいは、その説話論的欲望を余儀なく昂揚させ、それを統治空間の全域に行きわたらせざるをえない立場に追いこまれる。「物語」の勝利とは、統治空間をも説話論的空間に従属せしめる絶対的な勝利なのだ。そしてその事実は、いささかも抽象ではない。

「物語としての法」

 風景は教育する。風景が風景としてあることの意義は、ほぼその点に尽きるいってよい。風景をめぐって口にされるあれやこれやの言説は、風景がまというる諸々の表情がそうであるように、ときには教育とは無縁の体験へと人を導くかにみえるが、そうした体験も所詮は風景にとって二義的なものにすぎない。教育装置として機能することで、風景ははじめて風景となる。(略)教育とは、存在を分節化し、装置としての風景にふさわしい体系に、思考と感性と想像力とを馴致せしめる不動の活動にほかならない。だから風景に驚嘆し、また退屈しもする感性は、装置としての風景が休みなく語り続ける美しさの物語に、しかるべく組みこまれてゆくまでのことだ。存在が風景を読むのではない。風景が存在を読みとってゆくのである。風景が教育するとは、この風景による解読の運動に存在が徐々に慣れ親しんでゆく過程を意味している。

『表層批評宣言』

 息苦しいまでの権力の顕現ぶりである。「物語」は権力者をも説話論的空間の内部に捕捉し、統治者と被統治者ともども物語の犠牲者に仕立て上げてゆく。また、政治的機構、市場、社会、あるいは政治家、労働者、一般人諸々が織りなしつくりあげてゆく風景は、分節装置として作動し、風景全域に権力を行き渡らせ、そこに従属する人々に自由と不自由を取り違わせ続ける。「風景」は現在なら「空気」と呼ばれるところのものだ。ジャック・ラカンは「無意識は構造化されている」と言ったが、「空気」もまた、政治的文化的に構造化されている。おそらく世に言う「空気」は自然と文化の中間地帯に広がる説話論的空間のようなものであり、だからわれわれは空気に無批判に従うばかりでなく、それよりも空気の由来およびその構造の解読に着手し、空気の圧力に抗う術を身につけることのほうがはるかに生産的なことのように思える。「LGBTは生産性がない」というような政治的メッセージが発生する空気への解毒剤を生産することが求められるのだ。それには「権力的」ではなく、「政治的」であれ、と蓮實は主張する。たとえば、『幽霊以上に幽霊的なチューブ』という映画作品を、風景によって犯された視線を駆使して接するのではなく、風景が計量化し操作することのできぬ魂の震えを通して、空気が誘導する価値づけに背を向けて、映画=世界と魂の遭遇を成就せよ、とアジる。

 例えば『幽霊以上に……』の何の変哲もないテーブルを見落とさぬこと、そしてそれが食卓であると同時に宙に懸った色彩の滝であり、肖像を欠いた肖像であり、帆船という名の殺人用具であり、表層化された女陰として生い茂った枝さきで風に揺れているおびただしい数の木の葉でもあることを蝕知しうる映画的感性の興奮、それこそが政治的なのだ。政治であり批評でもあるこの体験は、決して終りがないにもかかわらず刹那的であり寓意を排し徹底して具象的でありながら、象徴に向かって開かれ、視覚的と思われながらどこまでも触覚的である。おのれの無効性に目覚めることのない視線は、たちどころに政治的であることをやめ、権力的となる。そして映画をめぐるほとんどの言説は、その二重の虚構によって、無自覚のうちに権力の分節化を実践してしまう。つまり、中心化と階層的秩序化による差別の境界を、誰に頼まれたわけでもないのに、いたるところに引いてまわるのだ。

「触覚的体験としての批評」

 35年以上も前に書かれた文章だが、そのころからわれわれの文化は進んでいるのか、あるいは後退しているのか。イタイケを擁護するためにも、批評的政治的老獪さを身につけることが急務のように思える(それは高度な文化的実践である)。

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