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BGMは昭和なロックで(大崎善生追悼)

 作家の大崎善生が亡くなった。対象への入り込み方のバランスが非常に素晴らしい、稀有な書き手だった。追悼の意を込めて、ここに3年前に書いた原稿をアップします。

一枚の写真

 プロ棋士を目指す少年や若者たちがしのぎを削りあう「奨励会」の姿を、現場で接し続けた者ならではの生々しさで描いた大崎善生の『将棋の子』は、「心の片隅に貼りついてしまったシールのように、剝がそうとしてもなかなか剥がすことのできない一枚の写真がある」という印象的な一行で始まる。その写真には、「東京将棋会館の4階の廊下の片隅」に「一人のセーター姿の青年ががっくりと首を落として座りこんでいる」光景が写し出されていた。

 青年の名は中座真。写真は平成8年第18回奨励会三段リーグ最終日に写されたものだ。11歳で奨励会に入会した中座は、このリーグ戦の最中に誕生日を迎え26歳になっていたが、年齢制限という奨励会特有の規則のため、このリーグ戦で四段に昇段しなければ、奨励会を退会しなければならないという瀬戸際に追い詰められていた。「半年間にわたる26人という大人数のリーグ戦の末」、生き残って上へあがれるのはわずか2人だけという激戦状況において、中座は最終日に4番手の位置についていた。だが、最後の対局で中座は敗れた。「何もかもが終わった」と覚悟した中座の胸に、様々な想いが去来する。

 将棋盤を離れると突然にさまざまな感情が地鳴りのように胸に押し寄せてきた。最終的に勝てなかった悔しさや、奨励会を卒業できなかった情けなさ、はるか稚内の地から自分を支援し続けてくれた両親への感謝とそして申し訳なさ、小学校6年からの故郷を遠く離れた東京での修業の厳しさや寂しさや、ああ、これからどうしよう俺は何をすればいいんだという不安感や、とにかくそんな感情がとめどもなく胸に響き渦巻いていた。

『将棋の子』

 乱れる心を落ち着かせ、帰り支度を始めた中座だったが、事態は予想外の展開を見せ始める。中座の上に位置する3人のうち2人が揃って敗北し、中座を含めた4人が同星で並んだのだが、「頭ハネ」という独特なルールによって、その4人のうち中座1人が昇段するメンバーに決定したのである。あまりに不可解な星の巡り合わせに直面し、生き残った中座は「腰が砕けへなへなになってその場にへたりこんでしま」うことで、運命の残酷さへの対応を図ったのだが、この時その場に居合わせた「週刊将棋」記者によって撮影されたのが、大崎善生の「心の片隅に貼りついてしまったシールのように」、彼の記憶に焼き付いた写真だったのである。その写真は勝者が勝利を手にした瞬間を切り取ったシーンである、と一応は言うことができる。けれどもそのような平板な言葉では収まりきらない固有な時間の生々しい表情が露出しているようにも感じられる。その露出された生々しい表情がとても懐かしい。

 『将棋の子』には、将棋界を華やかに彩る天才や名人が、例えば、羽生善治や谷川浩司が登場し、棋界の臨場感を伝えもするが、彼らとは異なる無名の棋士、というよりは羽生や谷川らが持ち合わせる決定的な新しさとは異なるスタイルに無意識のうちに執着したがゆえに、棋界の表舞台から退場せざるを得ない落ちこぼれのような存在を愛情豊かに描き伝える。描かれた肖像からは、中座真の故郷である稚内には残存していたであろう体臭のようなものが立ち昇る。その体臭が途方もなく懐かしい。

昭和57年の前と後

 作者の大崎善生は、昭和57年に「日本将棋連盟」に就職し、多くの将棋棋士と接し、後に「将棋世界」編集部に配属され、将棋ジャーナリズムと関わったが、彼がプロの将棋界に参加した昭和57年は、期せずして、日本の将棋の歴史の大転換期にあたっていた。まずは昭和58年にわずか21歳で名人となる谷川浩司の出現である。

 たった一人の天才の出現により将棋界が受けの時代から攻めの時代へと転換していったのである。谷川の台頭によって将棋の本質の何かが変質を遂げた。谷川以前とそして谷川以降、そこにはまるで違う理論によって立つ将棋が存在しているかのようでさえあった。

『聖の青春』

 谷川に続くように、「将棋界を襲う大波」と評される「昭和57年組」が台頭してくる。この集団には、羽生善治を筆頭に、森内俊之、郷田真隆、飯塚祐紀、小倉久史などそうそうたるメンバーが顔をそろえていた。彼らに共通するのは、コンピュータを活用して、過去の棋譜を徹底的に分析し、自らを演算マシーンに仕立て上げ、古い棋士たちが身に纏っていたクサいロマンティシズムにひとかけらの郷愁も持ち合わせていないことである。「芸術家のひらめき」など、ダサい戯言でしかない。

 そこに要求されるのは感性や才能といったものではなく、精密な計算力のみなのである。だから、羽生を中心とする新しい考え方の棋士たちには詰将棋を解く訓練は必要不可欠であった。終盤の緻密な計算力を高めるトレーニングのためである。終盤の創造性や個性を高めるのではなく、演算能力という自分の性能を高めていこうという考え方である。

『将棋の子』

 私は将棋に関しては全くの素人であり、その世界について語る資格を持ち合わせてはいないが、大崎が目の当たりにした昭和57年頃の将棋界の風景には、見覚えがある。文化シーン、とりわけ、音楽や文学の世界において、将棋界と同じことが起こっていたのである。音楽でいえば、テクノ・ミュージックが台頭してくる。それを牽引していた坂本龍一は、伝統とテクノロジーの戦いだ、と語っていた。文学でいえば、昭和58年に発表された中上健次の『地の果て至上の時』において、土方がコンピュータを操り、それと連動するかのように、中上文学で特権的なトポスであった「路地」が解体し消滅する。文学から科学へという流れが急速に露出してくるのがこの頃だったのである。

古い奴だと思いでしょうが……

 昭和57年より前の感性に属していた棋士たちは、「吹き荒れる嵐」に翻弄されていた。昭和56年に奨励会に入会した米谷和典という17歳の青年は、いわゆる「地方の天才」で、それなりに神童の片りんぶりを見せ、「瞠目すべき勢い」で勝ち進んだが、「昭和57年組」のサイクロンの前では、よたつく「双発機」に過ぎなかった。米谷は24歳で奨励会を退会し、以降、転々と職を変えてゆく。人生の再起を決意する彼は、専門学校に通い始め、司法書士を目指す。会社勤めと並行しながら鬼気迫る猛勉強に励み、それが祟って眼科医から失明の可能性もほのめかされるが、最終的に、合格率わずか2パーセントの難関を突破し、奨励会を去って8年後、大崎善生ら日本将棋連盟関係者と再会を果たす。

 米谷のほかにも、『将棋の子』には、奨励会の競争に勝ち残れず去っていった何人もの若者たちの姿が印象深く描かれているが、本書で中心となり、大崎の回想を引っ張るのは、成田英二という北海道で神童の名をほしいままにした男である。成田の存在は象徴的で、彼の人生の歩みは、日本の経済成長の裏側の部分をなぞるかのように足跡が重なっている。

 成田は、昭和35年に北海道夕張市で生まれた。「夕張」とある通り、父は炭鉱夫として働いていたが、やがて石炭産業にかげりが見え始め(夕張市は2006年に財政破綻する)、一家は札幌へと移住する。その地で成田は将棋を覚え、やがて五十嵐豊一八段に才能を見出され、昭和52年に東京の奨励会に入会する。

 大崎善生が描くところの成田は、昭和57年組の都市圏出身の秀才たちとは違って、土の香りを発散させまくっている。「今日はこっちの相手、誰か強い人きてるっぺかねえ?」と北海道弁まるだしで喋り、北海道で暮らしたことのある私には、その調子がたまらなく懐かしかった。大崎と食事に行けば、いつも「ハンバーグとコカコーラ」を注文するような子供っぽさが抜けきらず、「美人喫茶」なるいかがわしい場所で1万円をぼられ、定期入れに常に森昌子のブロマイドを後生大事に入れている。「こっち、女は森昌子以外は興味ないっぺさ」と大真面目に語る成田は、昭和57年の文化シーンでは、テクノや渋谷系のかっこうの攻撃対象になりそうだ。ところでそんな成田の将棋スタイルが、やはり、旧式のものなのである。

「定跡の勉強は?」とコーヒーをすすりながら私は成田に聞いた。
「いや、こっちそれはまったくしない」と成田は答えた。
「それで、いいの?成田の序盤はなってないって将棋世界に書かれていただろう」
「ああ、あれかい。あんなの関係ないっぺさ。序盤で損したって、終盤で逆転してやるんだから、それがこっちの将棋だ」

『将棋の子』

 このような成田の将棋観は、時代に逆行するものであり、明らかに少数派であった。序盤と定跡の研究をみっちり行うことが勝利には必須であり、「棋士個人の持つ個性や発想」など時代錯誤も甚だしく、すべてはコンピュータのようにシステマティックに機能しなければならない。「その終盤重視の理論は昭和57年に入会した羽生善治を中心とした天才少年軍団によって駆逐されていくことになる。序盤と定跡の研究こそが緊急課題であり、その知識や研究の深さが勝敗に直結していくというのが、新世代の俊英たちの考え方であった」。結局、彼ら新世代の前に成田は敗北し、東京を去ることになるが、成田が執着した終盤重視という考え方は、将棋の歴史においてひとつの系譜を形成しているのかもしれない。例えば、伝説の真剣師(賭博将棋の実践者)小池重明の棋風を、将棋雑誌「将棋ジャーナル」の発行人を務めた団鬼六は、次のように語っている。

 関則可が恋人を泣かせてまで小池を好遇したというのも、やがてこの男、自分など目もくれぬアマ強豪のナンバーワンにのし上がると予想したからであった。俺にはない特殊な将棋感覚をこの男はもっている。それは定跡が完璧化した近代将棋ではなく古典的な将棋感覚で、序盤作戦はお話にならないくらいにまずいが、中盤以降終盤にかけての野放図な力強い指し方は江戸期の将棋感覚である。

『真剣師小池重明』

 「古典将棋の華麗なさばき」という棋風はあるのだろう。真剣師は昭和四、五十年代にかけて活躍し、それ以降は「天才もサラリーマン化する時代となった」と団鬼六は慨嘆しているが、昭和57年には真剣師的な古典性は消滅しつつあった。消えゆく「真剣師的な古典性」に大崎善生もまた、親和性を持っていた。じつは昭和58年の人事異動で、将棋連盟道場で働いていた大崎の上司として、関口勝男五段が赴任してきたのである。関口は長野の天才児として名を馳せ、のちに弟子入りした先が神話的な真剣師だった花村元司だった(花村はのちにA級プロとなる)。関口も挫折した棋士で苦労したぶん、「関口の奨励会員たちへの視線はいつも厳しく、と同時に限りなく優しかった」。大崎善生の視線は関口勝男の視線に同化している。つまり昭和57年より前の感覚である。コンピュータライズされたテクノ・ミュージックの感性ではないのである。じっさい、成田英二との再会を果たすべく札幌へと向かう寝台列車に乗る大崎の頭の中で流れ続けるのは、エアロスミスの「ドリーム・オン」なのである。

BGMは昭和なロックで

 昭和48年(1973年)に発表されたエアロスミスの「ドリーム・オン」は、「夢を続けろ」という昭和57年時には死語あるいはパロディと化していたフレーズを何度もリフレインさせる。おそらくは「60年代の昂揚を持続させろ」というメッセージだと推測されるが、昭和57年のテクノ・ミュージックにはこのような情熱はない。当時のキーワードは「明るいニヒリズム」で、「夢を続けろ」などクレージーと受け取られていたのである。じっさい、先日NHKで昭和59年放送の「YOU」という番組を再放送していたのだが、そこに集結した当時の最先端カルチャーの幾人かの表現者たちは、押しなべて「新しいものはもはや登場しない」と明るい諦め顔で口にしていた。「諦めろ=夢を見ようとするな」が当時の時代の主調を形成するメッセージだった。だからエアロスミスの「ドリーム・オン」を思い入れたっぷりに聞き入ってしまうことは、なかなかアナクロニズムなことなのである。そのアナクロニズムは成田英二の古臭さに似合っているが、昭和57年組にも、存外、馴染むところがあるかもしれない。というのも棋士たちは、タイトル戦を戦う時は和装で登場し、同時代との地平とは連続性を断っているかに見えるからだ。私は、「将棋」というジャンルには、時代劇性を感じており、そのアナクロさには愛着を持っている。升田幸三の風貌など時代劇顔の典型ではなかろうか。現在の将棋界には升田幸三の野武士の顔が欠落している。というか今あの顔が登場したら、たぶん、コントになってしまう。その点、加藤一二三の同時代感覚はずば抜けていて、自らのキャラ化に成功している。ひふみんと言えば、クラシック音楽の熱唱姿が有名で、讃美歌のヴァラエティ化にも成功してしまっている。アイルランドのロックバンドU2の生真面目さとはだいぶ違う。

 ここは昭和57年組以前の旧タイプ棋士に寄り添って、『将棋の子』の主調低音に同調しつつ、気分は伊藤政則で、昭和なロックをピックアップしてゆく。まずは昭和なロックというと、思い出されるのがブルース・スプリングスティーンの「Born to Run」。「走るために生まれた」なんてテクノは歌わないだろう。

 次いでAC/DCの「Whole Lotta Rosie」。とにかく熱くて勢いがある。

 グランド・ファンク・レイルロードの「Inside Looking Out」にも時代の熱さを感じる。

 日本からは、戸越銀座に生まれたがゆえテクノとすれ違ったCharの「All  Around  Me」。アコースティックで地味なのだが、私は好きである。Charは勢いだけのミュージシャンではないことがよくわかる。

 顔面がテクノとすれ違った柳ジョージからは「さらばミシシッピー」。柳ジョージは立派な時代劇顔をしている。

 浜田省吾の「ON  THE  ROAD」も、この世界観は昭和でしか成り立たない。

 女性を挙げるとすれば、カルメンマキ。曲は「空へ」。こういう女性ミュージシャンはほんとに見かけなくなってしまった(キャラ化を拒んでいる)。

 レッド・ツェッペリンが好きだったという大崎善生の追悼には、やはり、ツェッペリンの「天国への階段」を流すのがよかろう。


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