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「女が書けていないこと」を恥じることなかれ(宮沢章夫の『青空の方法』について)

「女が書けていない」。この台詞は、旧世代の男の物書きへの殺し文句だった。あるいは今でも、この言葉は、昭和の残り香として、マッチョ神話の価値観に縛られている一部の男に影響力を揮っているのかもしれない。この殺し文句を突き付けられて人はどのようにふるまうのか。マッチョな旧世代であるなら、「この試練乗り越えてみせようじゃないか。目指すは平成の谷崎潤一郎、あるいは川端康成!」と真っ向勝負を挑み、『好色一代男』の世之介よろしく、性の冒険へと旅立ち、ナオミや駒子相手に女の世界の深みを掘り下げようとするかもしれない。それはおのが実存を賭けた縦方向の運動だ。

けれども、実存とやらの野暮ったい重苦しさに体質的に馴染めない宮沢章夫は、横方向にステップを滑らせてみせる。では、「男が書けていない」はどうなんだ。宮沢はとぼけた顔でそうつぶやく。そのような問いが文学の場において発せられたことがあっただろうか。「女が書けていない」ことが物書きの恥であるならば、「男が書けていない」ことは恥とならないのであろうか。そんなことを問い始めたのなら、「犬が書けていない」や「オオアリクイが書けていない」ことは物書きとして致命的な欠陥とならないか?こうして次々と新たなる問いに苛まれるふりをする宮沢は、物書きとしていまだ他のだれも発したことない問いに直面してみせる。「山田が書けていない」。山田さんについての深く真摯な考察が宮沢によって実践されているかどうかという問題は、この際どうでもいい。宮沢の軽やかな横滑りによって、「女が書けていない」という紋切り型の意味がその効力を奪われてしまっていることが確認できさえすればよい。なまじっかのことでは二度と「女が書けていない」という言葉を口にすることはできないだろう。

このような宮沢の文化的戦略は、80年代の文化の良質な部分だと言える。宮沢の80年代的振る舞いは、権力を模倣しないことや政治を回避することに通じている。「女が書けていない」という台詞は、「正しい女の描き方を習得せよ」という父の命令を含意している。父の命令に従うにせよ、それに反発するにせよ、「正しい女の描き方を習得せよ」という命令にこだわってしまうならば、人は政治的権力的な回路に巻き込まれてしまう。宮沢は巧妙にそのような回路から遠ざかる。

かつて江藤淳は、第三の新人を論じた評論において次のように述べたことがある。「ある意味では『第一次戦後派』から『第三の新人』への移行は、左翼大学生から不良中学生への移行だと言えるかも知れない。もちろんこの左翼大学生である『第一次戦後派』は『父』との関係で自己を規定し、不良中学生たる『第三の新人』は『母』への密着に頼って書いたのである』(『成熟と喪失』)。言うなれば、宮沢は60・70年代の全共闘的な左翼学生の後にやって来た80年代の無邪気さを装った中学生であった。80年代カルチャーとは中学生の文化のことである。

左翼学生は父と子の間で政治的闘争を繰り広げたが、80年代の文化は「ニュートラル」という言葉を殺し文句にして、非政治的であることを良しとした。例えば、「この国の美」というコラムの中で、宮沢は「負け犬になりたいか」というアメリカ映画に頻発される言葉に注目する。いかにもグローバル経済を推進する競争社会の国を反映した言葉だが、宮沢はこの問題を政治的・実存的に深めようとはしない。彼は非政治的に横にずらすのだ。アメリカ人が「負け犬」を恐れるなら、日本人は「化け猫」を恐れる。

「化け猫になりたくなかったら、油をなめないことだ」
 そんなふうに言われても、ああ、そうですかとしか返事のしようもなく、「負け犬になりたいのか」と言われて湧き上がってくるような心性はもちろんのこと、言われたからってなにも発生しない。
 それが化け猫の特権である(「この国の美」)

『青空の方法』宮沢章夫


「化け猫の特権」とは「負け犬」を生み出す政治的・権力的な場から身を遠ざけておくことである。と同時にそうした現実問題から目をそらすことでもある。「負け犬を生み出す社会の構造を徹底的に問いただす!」と左翼学生のようにふるまってもいいはずであるし、そのような回路を人類は必要としてもいる。80年代の文化の罪は、そのような回路を隠蔽し抑圧したことにあるのではないかと、個人的には思っている。

とはいうものの、宮沢の「横滑り」には、やはり魅力も美質も十分に備わっていると思う。例えば、東京都と鳥取県の間に存在するのかもしれない「一票の格差」問題に対して、しれっとした顔で「投票用紙のサイズを東京の七分の一にする」と言ってしまうところなど、やはり笑える。

惜しまれるのは、宮沢のこの名著が、現在、絶版状態であることだ。このことには義憤のようなものを感じる。


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