
アナログ・隠喩・有限のあしたのために
あの歌の記憶を取り戻す
おそらくは、ホントに極端とも言えるほどにマイノリティなのだろうが、世の中には自分の周囲の世界から「深さ」が消えてゆくことに本能的な寂しさを覚える人間がいるものだ。「あれれれ……なんだかペラくなっちゃってるぞ……調子狂っちゃうんですけど……何というか精神がのらないんすよね……ものすごくアウェイな感じがするんですけれど……ホーム感ものすごく薄いんですけれど……」そのような息苦しさや苛立ち、および焦燥や居心地の悪さに苛まれる人間がいるものだ。「深さ」が失われてゆく……あの生々しくも艶めかしい「苦痛」が奪われてゆくようだ……自分の魂のふるさとだというのに……。
深さが消えていく、快楽と背中合わせの苦痛が薄れてゆく、魂のふるさとがなし崩しにされる……そのような危機感を抱いた人間の一人にジャック・ラカンがいた。ジャック・ラカンは、その晩年期に、人文学の壊死を予感していた。1975年のある日の次のようなシーンは、人文学が世界から蒸発してゆく兆候が鮮やかに記録されている。
一九七五年のある日、ジャック・ラカンはアメリカに向かう飛行機のなかで彼のセミナールの英訳者アラン・シェリダンと「享楽jouissance」というフランス語をどのように訳すべきかについて話し合っていた。「享楽」に「エンジョイenjoy」という訳語をあてることを提案するシェリダンに対して、ラカンはなかなか首を縦に振らない。そして飛行機が着陸し、「エンジョイ・コカ・コーラ」と書かれた看板が目に入ると、彼はすぐさま「駄目だ、エンジョイではない」と断言したのだという。
1975年と言えば、日本を含めた先進国諸国が高度消費社会に突入する頃である。この数年後には、リオタールが『ポストモダンの条件』を発表し、「大きな物語は終わった」と人文学の終焉を確認することになる。「享楽jouissance」が人文学、「エンジョイenjoy」が高度消費社会であり、「享楽jouissance」に人生の根本を見出す者はマイノリティ、「エンジョイenjoy」に人生の根本を見出す者はマジョリティということになる。勝負は決まったようなものだ。ラカンの革命幻想は終わった。なぜなら、ラカンの革命幻想はクラシカルに「侵犯」に基づいており、「侵犯」は「享楽jouissance」を通して発現するからである。このプログラムにおいては「象徴界=父の審級」が不可欠の前提条件であるのだが、「エンジョイenjoy」がその条件を侵食してしまっている。
もう少し説明を付け加えよう。父は法の象徴として子の自堕落な欲望(例えば、母の胎内にいつまでも揺蕩っていたい)を禁止し、子を抑圧することで、欲望成就を目指す子を、迂回という不快なプロセスの上に乗せる。そのようなじれったい迂回や遠回りというアナログな時間を経ることで、子は主体を立ち上げ、父と闘争する。不快を伴わざるを得ない厚みのある時間というのがポイントである。このことはアスリートや生楽器演奏家なら即座に理解できるであろう。人工身体を持っていれば話は別だが、アスリートはアナログで有限な生身の身体を起点にして、ことを始めなければならず、例えば、筋力や心肺機能の向上、技術の習得など、それらはある程度の長さ(迂回)を持ったアナログな時間を通して実現されなければならず、厚みや重みを伴う時間性を体験しなければならない。楽器にしてもそうであろう。ギターやピアノやヴァイオリンの習得にはアナログな時間性が欠かせない。そこには「不快」という古い精神分析の重要なタームが存在する。
ところが、最近のデジタル技術は、この「不快」を削除してしまうのである(このことが人文学系の精神分析学を苛立たせている)。楽器をできない者は、練習しなくとも、コンピューターの力を借りて、ミュージシャンになれてしまう。ロックバンドからギターの影が薄くなるわけである。
要するに、不快や惑いのようなアナログな時間性が現代社会からは消滅し、そのことにより、人間の身体の在り方も変容を被り、今や現代人の身体は、アナログな身体であれば持つことのできた「精神」とのつながりを失い、「生理的機構や生命維持機能が備わっただけの身体」(立木康介)になってしまっているという。こうした身体はもはや「エンジョイenjoy」しか受け付けなくなる。その先に出現するのは、アナログな時間制を通して父と戦うことのできた主体が不在なのだから、真綿で首を締めるような管理社会であろう。
このような時代にあっては、人は症状や文化を究極的に決定づける象徴界の法に従う必要がない。すると、一切の禁止を知らない、自体愛的な享楽人間がこの世を謳歌することになるのだろうか?そう単純にはことは進まない。かつてのような象徴界の<法>が無効化されたとしても、それでも社会は秩序を維持しようとするだろう。その際に、<父の名>の代わりに秩序維持装置として働くのが、獰猛な超自我であり、その現実的アヴァターとしての統計学的管理である。
ここで言われている「統計学的管理」とは、日本でなら、さしずめ「空気」ということになろう。さしあたって身につけておくべきは、「空気を読む」ことに長けた才ではなく、「空気を判断し吟味する」感性である。その感性を育むにはアナログな時間を帯びた風景が必要だ。ラカンによって次のように語られるフロイトは、主体のふるさとを要求していたのではないだろうか。
ラカンの言い方を借りるなら、フロイトは「<父>を救う」ことに躍起になっていたと言えるだろう。すなわち、フロイト理論は、いわば<父>が確固たる<父>として存在するという想定、すべてを包摂する<父>が存在してほしい、という願望に支えられたものなのである。
ここで言われている父は権力でも理不尽な法でもない。混沌に飲み込まれてしまうかもしれない子を救うべく、闇の中で道筋を照らす光のようなものであったかもしれない。それは目的のない不良に過ぎなかった矢吹丈と「あしたのために」と題された手紙をやり取りした丹下団平の不器用な愛情であるかもしれず、矢吹とライヴァルとして戦い、その戦いを通して「生」に形を与えることを共同作業した力石徹やカーロス・リベラの闘争的友情のようなものであったかもしれない。もう少し大きく言うと、時代の変わり目を前にして、自然による荒廃を避けるために文化的秩序を守ろうとしたフロイトは、しっかりとした基盤がないがゆえに大衆社会がファシズムに転化することを必死で防ごうとしていたかもしれない。その時、フロイトの耳の底ではあの歌(「あしたのジョー」尾藤イサオ)が鳴っていたかもしれない。
懐かしいあの歌
懐かしいあの歌をもう一曲。20年以上も前のEastern Youthの「夏の日の午後」である。スリー・ピース・バンドでこれだけの音の厚みを出せるのは驚異的である。ヴォーカルの顔のこてこてのアナログさが素晴らしい。昭和の名匠・土門拳の写真家魂に火をつけるような顔立ち(例えば棟方志功)である。
もうしばらくアナログ的なものを巡ってこのテーマ原稿を続けてみたい。