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司馬遼太郎の戦中派メンタリティ

1950年代のメンタリティ

 1960年代後半、まだ幼稚園に通っていたころ、テレビをつけると、当時はやたらと子供向けの忍者ものが流行っていた。『忍者ハットリくん』、『少年忍者風のフジ丸』、『仮面の忍者赤影』、『サスケ』、『忍風カムイ外伝』など。私にとって、それらの作品に登場する忍者たちは、今の子供たちにとってのハリー・ポッターのような存在ではなかったか。非日常的な異能の持ち主たち。幼児の自己拡大願望を充足させるヒーローたち。幼児の感覚に則って切り取られたそれらのヒーローたちには、当然、歴史的背景はなく、「少年ジャンプ」のキャッチフレーズである「友情」「努力」「勝利」という極めてシンプルな世界観に沿って、それらのヒーロー像は消費されていたように思う。とはいえ、歴史的陰影を欠いてはいるものの、幼心にあれらの忍者たちから宗教的な聖性のオーラを感じとっていたとも思う。人間技とは思えない忍術、それを体得するための超人的なレベルにまで達する苛酷な修行。そうしたイメージにはそこはかとなく神々しい雰囲気が漂っていた。じっさい、司馬遼太郎は忍者の神秘的な技の源流を、密教的な世界に求めている。


 伊賀流忍術における幻術は、源流をたずねれば、おそらく中国の仙術と、インドの婆羅門の幻術になるだろう。このふたつを術者として統合したのが役の行者。名は小角。大和の鴨族の出身で、七世紀の古代日本に活躍した。はじめ大和葛城山で修行し、三十年穴居して山を降りず、ついに仙術をえてから、大峰、二上、高野、牛滝、神峰、箕面、富士などを遍歴しつつ術技をみがき、晩年、九州を周遊し、豊前の彦山にのぼったが、以後消息を断った。霧隠才蔵の時代よりもはるかに後年の寛政十一年、時の天子光格天皇からオクリ名されて、神変大菩薩の勅号をうけた。

『風神の門』

 「三十年穴居して山を降りず」とは、なんとも凄まじい行いだが、直木賞を受賞した名作『梟の城』の主人公葛籠重蔵の人物像もまた、このラインで造形されている(もともと『梟の城』は「中外日報」という仏教系の雑誌に連載された。また、司馬遼太郎は新聞記者時代、寺院の取材が専門で、仏教の世界や業界には詳しかった)。重蔵とは対照的なキャラクターであり、世俗の論理で動く伊賀忍者風間五平は、重蔵の反時代的なストイシズムに畏怖を感じつつも蔑みながら次のように語る。

 「ご苦労な奴じゃ」
 五平は、真っ暗な部屋の中で額の汗を拭いつつ、吐き捨てるように呟いた。身を守る用心とはいえ、一面からいえば、重蔵の生き方を象徴しているようでもあった。一体、どれほどの願いの筋があって、ああまで自分を、自分で作った苦行の枠の中に閉じ込めておかなくてはならないのか。
 「そういう伊賀者は、昔は居た。おのれの術の中に陶酔できる伊賀者が。……術を錬磨し、術を使うことに陶酔し、その陶酔の中にのみ、おのれの生涯を圧縮し、名利も、妻子のある人並みな生活も考えぬ伊賀者は居た。しかしいまは、元亀天成の世ではないわい。年号も文禄とあらたまり、戦の種さえ朝鮮へ行き、日本の大小名の悉くが茶事にうつつを抜かしている時節ではないか。その時節に、あの男は、しがない商うどに使われて、おのれのみが最後の伊賀者になろうとしている。こけにもほどがある」

『梟の城』

 司馬作品の登場人物たちは、キャラが濃いが、その中でもとりわけ異彩を放って独特な存在感を示すのが葛籠重蔵である。この人物には、司馬の内部のいろいろな要素が入り込んでいる。しばしば言及されるのが、組織の駒に過ぎないサラリーマンの悲哀に満ちた姿のメタファーというもの。これはこれで、正しい解釈だとは思う。と同時に、私は、戦車の操縦が下手なダメ兵士だった司馬の「戦中派」としての体制への鬱勃とした怒りと屈折した矜持を、司馬が描く忍者たちの姿から、強く感じる。1960年あたりで、戦中派の賞味期限は切れるが、1950年代の司馬は、1960年以降主流となる形而下=経済=光の相対物である形而上=宗教=影のリアリティを強く感受し、そうしたメンタリティを忍者の肉体に仮託した。司馬の描く忍者は、1950年代のメンタリティを象徴していると言ってよかろう。

1950年代と1960年代

 朝鮮戦争特需による「神武景気」が1954年に始まり、「もはや戦後ではない」という、「経済白書」の有名な宣言がなされるのが1956年のことである。この年、石原慎太郎の「太陽の季節」が芥川賞を受賞し、「太陽族」が社会現象となる。吉本隆明は「朝鮮戦争の前後から日本の戦後民主革命は決定的に挫折の兆候をあらわしはじめた」(「戦後詩人論」)と書いている。1950年代前半には、早くも、戦中派代表である現代詩(荒地派)や現代文学(第一次戦後派)は、そのアクチュアリティを失い、戦後世代の「感受性の祝祭」派や「第三の新人」に覇権を譲ることとなった。大衆小説の世界において、やはり決定打となったのは、1960年の池田勇人による「所得倍増計画」であろう。

 1950年代に戦中派的な『梟の城』(1958~59年)を書いていた司馬は、1960年代に入ると、高度経済成長のイデオローグのような『竜馬がゆく』(1962~66年)や、アメリカの社会学者リースマンが分類してみせた「他人指向型」の典型のような豊臣秀吉を描いた『新史太閤記』(1966~68年)を書くようになる。

 司馬は、江戸幕藩体制に、愚かしい日本の軍隊や官僚体質を見ているが、徳川家康と豊臣秀吉の対比のうちに、60年代の基調となったメンタリティとの共振がよくあらわれている。家康(三河)と秀吉(尾張)の違いを、経済人的反射神経の有無から、司馬は説明している。

 三河には、徳川家康とその家臣団の気風で代表されるような、
 「三河気質」
というものがある。極端な農民型で、農民の美質と欠点をもっている。律儀で篤実で義理にあつく、侍奉すれば戦場では労をおしまず働く。着実ではあるが逆にいえば、投機がきらいで開放的でなく冒険心にとぼしい。印象としては陽気さがない。家康とその三河衆は、こういう三河の農民的特質をみごとなほどもっている。
(略)
 が、隣国の尾張はまるでちがう。
 地形がちがうのである。
(略)
 かつ、国の地勢が低地で河川の氾濫が多くせっかくの美田も秋になれば川に流されることがしばしばであった。当然、土地にしがみつく保守的な生き方よりも、外に出て利をかせぐ進取的、ときに投機的な生きかたをとらざるをえない。
 尾張は、農民まで商人的な気質をはやくから帯びているのである。のちにこの物語のなかで登場する織田信長の政治感覚や戦略感覚がいかにも商人の投機的性質に満ちみちているのは、三河とはちがったこういう特質と気質のせいであろう。
 この「小僧」もかわらない。いやむしろ、育ちのいい信長とくらべれば地下人だけに、あきんどの感覚は血肉の色合にまでなっている。

『新史太閤記』

 司馬の中にある、徳川幕府的な官僚気質への嫌悪と大阪商人の家庭に生まれた司馬のあきんどびいきのメンタリティが、ここでも顔をのぞかせている。ただ、司馬と言ったらしばしば人が思い浮かべる、坂本龍馬的健全な合理主義が司馬の看板となるのは、『竜馬がゆく』が書かれた60年代以降のことであり、50年代に忍者ものを書いていた頃は、「光」とは対極にある「影」と親和性の高い重苦しい作品を書いていた。『梟の城』の葛籠重蔵は、豊臣秀吉暗殺の仕事を請け負っているが、クライマックスの場面で秀吉と向かい合った彼は、秀吉独特の愛嬌に魅力を覚えてしまいはするものの、作品の言葉は重蔵的影へと重心を傾け、秀吉的光の論理を足蹴にしてみせる。「もともと金で動くようなら、このような危険な仕事はせぬものじゃ。領地がほしければ、疾くの昔に真っ当な武士になっている。世の中には、そのような私欲よりも、おのれの技をたのしみに生きている者が居るのを、わしの目の前に居てまだ判らぬと見ゆる」

 この台詞ののち、命乞いをする秀吉に、許してやるがその代わりに「うれしい」という屈辱的な言葉を、重蔵は要求して子供じみた喜びを得ようとするのだが、秀吉はそれを拒否し、怒った重蔵が秀吉を殴りつけて失神させるという結末に至る。秀吉暗殺という大文字的な大事業が、子供じみた拳骨という小文字的な矮小さへと転倒される。秀吉暗殺の裏には徳川家康の影がちらついているのだが、そうした体制の論理に悉く重蔵は刃向かい抵抗を試みる。その屈託に満ちた有り様は、戦中派のメンタリティを想起させずにはおかない。1932年生まれの作家小林信彦は、自分よりもやや年長の戦中派の知り合いについて、ある書評(浅羽通明の『渋澤龍彦の時代』についてのもの)の中で、次のように述べている。

 本書を読み通して、ぼくが感じたことの一つは、<戦中派>の皮肉な運命である。大正十二年生れの虫明亜呂無から昭和四年生れの色川武大まで、ぼくの知っている<戦中派>の人々はどこか似ているのだ。
 反俗のエッセイスト虫明は、<反俗>のよりどころの一つだった競馬がブームとなり、競馬評論家になってしまう。世すて人色川は、やはり<反俗>のよりどころだった麻雀というゲームのタレントとして、深夜テレビで知られることになる。

「同時代史の興味深さ」

 司馬は虫明と同じ年の生れであるが、やはり虫明や色川と同じような精神的傾向を共有するのだが、司馬の戦中派メンタリティ=葛籠重蔵の<反俗>は、次のような形で表出される。

 かれらは、権力を侮蔑し、その権力に自分の人生と運命を捧げきる武士の忠義を軽蔑した。諸国の武士は、伊賀郷士の無節操を卑しんだが、伊賀の者は、逆に武士たちの精神の浅さを嗤う。伊賀郷士にあっては、おのれの習熟した職能に生きることを、人生とすべての道徳の支軸においていた。おのれの職能のみ生きることが忠義などとはくらべものにならない凛烈たる気力を要し、いかに清潔な精神を必要とするものであるかを知りつくしていた。

 この目は、自分の人生にいかなる理想も希望も持ってはいまい。持たず、しかもただひとつ忍びという仕事にのみひえびえと命を賭けうる奇妙な精神の生理をその奥に隠している。その奇妙な生理が、この男の目に名状の仕様のない燐光を点ぜしめている。……

『梟の城』

 引用の前半部は、合理主義への反発があると同時に、司馬自身参加した戦争において、軍隊に「自分の人生と運命を捧げきる」盲目的な日本兵士への侮蔑があっただろう。後半部に見られる深いニヒリズムは、戦争によって根こそぎにされた青年たちの虚無感が反映されている。それが戦争直後から1950年代までの、日本の、あるいは世界の精神状況であった。戦争直後から1950年代までのこの時期を構造が崩壊した時代、一方、1960年代以降を構造が再建され安定期に入った時代と区分することが可能だ。構造と構造なき世界の問題を、三浦雅士に倣って、「うたげと弧心」という角度から考えてみよう。

うたげと弧心

 『うたげと弧心』は、大岡信によって書かれた日本古典論である。日本の詩歌の伝統に、連歌のような集団で創作する「うたげ」の要素と、紀貫之の歌のような孤独に寄り添って創作する「弧心」という相異なる要素を見出した論考である。三浦雅士の独創は、大岡信の『うたげと弧心』を吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』と結びつけたことである。三浦は、大岡の言う「うたげ」は吉本の『言語にとって美とはなにか』で示された「指示表出」という有名な概念に対応し、「弧心」は同じく『言語にとって美とはなにか』のなかの「自己表出」に対応すると言っている。吉本自身は、「自己表出」と「指示表出」という考え方を、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』から導き出しているが、簡単に言ってしまうと、言語にはふたつの様態があり、ひとつは自己の自己自身への自己意識の強さと関わり、もうひとつは他人との意思疎通を志向する社会意識の広がりと関わっている。それぞれを、「自己表出」「指示表出」と名づけたのである。

 「自己表出」の発生の具体的な光景を、吉本は初めて「海」を見た時の原始人の驚きに求めているが、その時原始人の意識を無意味に打撃する「う」という物質的な音が、やがて「眼の前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示する」役割を働くようになると、それは「海」という意味を担って社会を流通するのだという。

 私の個人的な解釈は、「自己表出」は海が不在の構造が「海」の出現によって崩壊する、いわば垂直的な暴力による出来事の痕跡のようなものであり、「指示表出」はその暴力を脱暴力化することで意味体系という構造を作り出し、その構造を水平になぞって意味を伝播させるのだ、というものである。縦の暴力(構造の崩壊)と横の安定(構造の再建)という見立てである。文化的には「自己表出」と「指示表出」いう言い方ができるが、イデオロギー的には「実存主義」と「構造主義」という分類となるだろう。三浦雅士も風景の変化とイデオロギーを対応させている。

 この変化を、社会的な状況の変化と関連させて考えることはたやすい。戦前の恐慌がマルクス主義を説得力のあるものとしたとすれば、戦後の混乱は実存主義を思想の先端に押し出した。その後に続く思想の潮流が、構造主義、ポスト構造主義であるとすれば、それらはそれぞれ戦後経済の高度成長、その結果もたらされた脱工業化社会、大量消費社会にじつに見事に見合っているということになるだろう。結果的には、構造主義は高度成長のイデオロギーとして機能したのであり、ポスト構造主義は大量消費社会のイデオロギーとして機能したのである。

「思想という商品」

 かりに、いまや流通が生産を規定する、あるいはさらに流通こそが生産であると考えられているなら、そしてそれが後期資本主義の現実であると考えられているなら、いわゆるテクスト理論はそのイデオロギーにすぎない。考える主体、書く主体への真摯を装った問いかけもまた、そのイデオロギーにすぎないということになるだろう。たとえばテクストの快楽とは、流通の快楽にほかならない。

「疑問の網状組織へ」

 三浦によるイデオロギーの変遷を見直してみると、結局、「弧心」は「実存主義」のみであり、1960年以降は「うたげ」の勝ちっぱなしである。政治的には、いわゆる「55年体制」がポスト構造主義まで延々と続いている。
 
 ここで司馬遼太郎に目を転じるとするなら、「弧心」=「自己表出」=「実存主義」は葛籠重蔵であり、「うたげ」=「指示表出」=「構造主義」は坂本龍馬である。葛籠重蔵は、1950年代のヒーロー像であった。『梟の城』は、1958~59年に連載され、1960年に直木賞を受賞したが、55年体制成立後に書かれたこの作品は、すでに不利な状況を生きていることに自覚的であった。

 小萩の豹変のすさまじさを目のあたりにみて、重蔵は、今更にそう思った。五平とは異なり、伊賀の忍者として生きようとする重蔵は、小萩のもつ化生にむしろ快い快感がある。世の太平とともに、職業として滅びゆく運命にある忍者の中で、あの女こそ最後の忍者を溌剌と伝承しているように思えたのである。

『梟の城』

 ここに登場する小萩は、一種のハニー・トラップで、徳川家康の陰謀を豊臣側へと暴露することを企む石田治部少輔が放ったくノ一であり、重蔵は治部少輔の思惑通り小萩と愛を交わすようになるが、その罠の真相を同僚の忍者から告げられた後に、重蔵はそれでもなお、引用部のような感慨を抱くのである。女への愛情以上に同類の者への強烈な共感と滅びゆく者が最後に燃え上がらせる焔の鮮やかさに重蔵は「ほとんど畏怖に近い感情の湧くのを覚え」る。とはいうものの、重蔵と小萩は、二人が愛を交わした夜、小萩が囁きつづけた「どこか、見知らぬ土地へのがれて、なみなみの人間のするような、安穏な、仕合せな生涯を送りましょう」という言葉通り、秀吉没後、「伊賀おとぎ峠の庵室に帰って、世間との交渉を断った春秋を送った」。

 忍者小説『梟の城』は、「重蔵は山容の中の地物の一つに化しはじめていた。小萩もまた、自分の夫の風ぼうを通りすぎてゆく山の風韻を、楽しいものに思えるようになっていた」という言葉とともに幕を閉じる。かくして、司馬は自分の中の戦中派的=50年代的メンタリティーを、ロマンティックな歌の中に鎮めたようだ。この後60年代の光の領域へと司馬は歩み出してゆく。ちなみに1961年に発表された短編「最後の伊賀者」に登場する忍者=戦中派は、完全に時代とズレてしまった存在として表象される。彼らは愚かしい内ゲバを演じ、後の新左翼の陰惨な事件を予見もさせるが、おそらく60年安保への司馬の対応ではないかという気がする。この短編の主人公は「ヒダリ」と名づけられているのだが、その名の由来は作品内では説明されておらず、ヒダリ=左翼という暗示ではないか、と個人的には邪推する。

 ところで、司馬が加担した60年代以降の風景へ距離をとったヒダリ側の人間はいるわけで、そちら側の言説を若干取り上げてみたい。

聞きとげられなかった言葉

 自分の父親と同世代であるがゆえに、まるで父との争いの代理戦争のように、司馬の作品世界を、『戦後思想家としての司馬遼太郎』や『司馬遼太郎の幕末・明治』などの著作で読み解いた歴史学者成田龍一は、高校の新必修科目「歴史総合」のテキストとしても読める『近現代日本史との対話』の中で、歴史の流れを人間の営みの総体の流れの「システム」としてとらえ、メタ的にそれを俯瞰するのだが、どちらかというとリベラル寄りで、現状の肯定よりは、現状への批判意識の強い言葉を書きとめている。司馬が『竜馬がゆく』などの60年代以降の作品で、明治維新以降の日本の近代化を価値化し、坂本龍馬の「商業立国主義者」像を強烈にイメージ化したことを踏まえつつ、昭和の戦後日本において「国民国家」が「企業国家」へと歪なまでに変質したことを指摘している。

 これらは、戦時中のシステムBⅠと、政策的な類似を有しているといえるでしょう。国家が主導して、経済的な計画を遂行します。人びとは、そのもとで主体的に、システムを起動していき(組み込まれていき)、システムBⅡが立ち現れます。システムBⅠが戦争への動員であったのに対し、システムBⅡは経済への動員であったことが、一連の動きでわかるでしょう。

『近現代日本史との対話【戦中・戦後―現在編】』

 「システムBⅠ」「システムBⅡ」とは、成田が提唱する近現代日本史の時代区分のことで、「システムAⅠ」から「システムCⅡ」まで全部で六つある。「システムBⅠ」は1930年の「昭和恐慌」から1955年の「55年体制」までで、「システムBⅡ」1955年の「55年体制」から1973年の「第1次オイルショック」までである。「システムB」は野口悠紀雄が90年代に唱えた「1940年体制=総力戦体制」とほぼ等しい。戦後の高度経済成長は、戦時中に日本官僚が編み出した1940年体制を応用したもの、ということである。このシステムは大成功を収め、後期資本主義においては、成田龍一言うところの「バブル期には、むきだしの欲望がはびこる事態となりました。一九八〇年代はあからさまな利益追求も当然とされる風潮となり、欲望を自己肯定する様相があちこちに見られるようになりました」(『近現代日本史との対話【戦中・戦後―現在編】』)ということになる。「うたげ」=「指示表出」=「構造主義」のイデオロギーというよりは、身もふたもない自然状態が全面勝利を収めたが、これに異を唱えるマイノリティもいることはいた。

 このとき、「戦後」を体現する政治学者の藤田省三は、ほとんど孤立しながら、一九八〇年代のこうした風潮を「安楽への隷属」として批判しました。藤谷には、高度経済成長を経た一九八〇年代が「全ての不快の素を無差別に一掃して了おうとする現代社会」と映っています(「「安楽」への全体主義」『思想の科学』一九八五年八月)。しかし、この論は例外中の例外です。人びとはその「現代社会」にはまり込み、たゆたい、心地よさにひたるのです。

『近現代日本史との対話【戦中・戦後―現在編】』

 藤田とほぼ同じころ、三浦雅士も、1980年代への違和感を表明し続けていた。

 かつては働くことは金銭を獲得すること以上の意味を持っていた。『二十四の瞳』でも『喜びも悲しみも幾年月』でもいい。あるいは国鉄一家をテーマにしたテレビの連続ドラマでもいい。良くも悪くも、そこには教師や灯台守や鉄道員に対する何らかの敬意が秘められていた。いまはどうか、地道に働くことなど馬鹿がすることだと考えられているのである。

 アメリカ人は考えることが嫌いだ。考えないのである。長年ニューヨークに暮らしているある友人が言った。日本人の画家である。この都市に暮らしていると物を考える習慣を失くしてしまうよ。
 確かにそうかもしれない。アメリカはエンジョイの国だ。

 おそらく、私が強く反撥したのは、アメリカの現在に対してではない。未来に対してなのだ。いまやすでにはじまっている大量消費社会という未来に対してなのである。

「アメリカ・日本」1986年・夏

 三浦雅士の反撥通りに事態は進んだようだ。楽天グループの三木谷社長は、自分が起こした事業は「水は上から下へと流れる」という自然の摂理に従って成功を収めた、という意味のことを言っているが、すべては快感原則に則って進んだのである。この快感原則の磁場を逃れるには、自己表出の強度を知る戦中派のような人間しかいないのだが、その一人である野坂昭如は、かつて、戦後30年を否定した。「こうしたイベントに対し、戦争中に「少国民」として育った、作家の野坂昭如は、高度経済成長下の「繁栄」を物質的で表面的なものにすぎない、と反発します。経済成長を求める姿勢を「アメリカ的なもの」とし、緊張感のないまま空虚に騒ぎ立てる態度に苛立ちを見せます」(『近現代日本史との対話【戦中・戦後―現在編】』)。その野坂もすでに鬼籍に入った。

 戦中派がいなくなった世界では、IT長者ばかりが幅を利かせている。しかし、ITなど、結局のところ、都市化されたフラット空間しか知らず、野坂が体験した「焼跡闇市」の電子記号化されない自己表出の強度をとらえられないではないか。ITが誇るのは電子化された指示表出の速度にすぎないであろう。指示表出は自己表出の強度を消去した後に残る影のようなものだ。IT長者は、ドヤ顔をして「コミュニケーション能力」の高さを誇るが、彼らは「歴史との対話」をすることはできない。物語りとしての歴史(指示表出)は理解できても、出来事としての歴史(自己表出)をついに理解することはできないであろう。司馬遼太郎が『街道をゆく』のような書物を書き、歴史と対話することができたのは、物語化されない(構造化されない)歴史の力に触れ、そこから改めてアナログな知性と感性を頼りに歴史を解釈し直したからである。その歴史の力(自己表出の強度)は、光と影という平板なデジタル的図式を超えたところにあり、それを受け止めることの出来るのは、自分の貧しい知的枠組みの崩壊を肯定できる資質を有する者であろう。私がIT長者のことが好きになれないのは、「勝つ」ことにしか関心がなく、「負ける」ことの快楽や「負ける」ことの権利に対して、まるで鈍感であるからである。「自己表出」という体験は、「指示表出」の敗北の体験を肯定することとともに生起するのではなかったか。

戦中派の抒情(演歌寄りの洋楽と邦楽)

 戦中派の話だったので、私のイメージする戦中派的音楽を。あくまでも私個人のイメージなので、ある程度のヴァイアスはかかっているかもしれない。まずはクリス・レアの「On The Beach」。このしわがれ声は昭和前期の雰囲気満載。ポピュラリティは得にくいが、コアな支持は得られそうである。

 次いで、柳ジョージの「祭りばやしが聞こえる」。同タイトルの萩原健一主演のドラマの主題歌。このしわがれ声も昭和であり、戦中派である。

 次は女性ヴォーカルから、ちあきなおみの「伝わりますか」。チャゲ&飛鳥の飛鳥涼が作詞作曲。演歌とニューミュージックの境界をゆくようなテイストがちあきの声と歌唱法に合っていて思わず引き込まれてしまう。

 チャゲ&飛鳥の名前が登場したので、彼らのデビュー曲の「ひとり咲き」。高校生の時初めて聞いたときは、演歌っぽいなあという印象だったが、中年期になっていい曲だと思うようになった。彼らの音楽は、テクノミュージック前の世界観で出来上がっているのだと思う。


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