ブダペストへ。 僕の「ワールドカップ」
道元についての研究をしています。彼の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を誰もが理解できるようにするためです。その価値のある書物なのです。ある学者はこの書を「日本仏教の至宝」と呼びました。大げさではありません。むしろ控えめなくらいです。「日本」も「仏教」も取り去って、およそ世に存在するテキストのなかで、最高級のジュエリーと言って過言でないと思います。
しかし同時に、最も難解な書物の一つでもあるのです。独特の技巧、洗練された修辞。それが比類の無い輝きを与えもするし、近寄り難い壁を作ってもいるのです。書かれてから800年近く経ちます。長い秘蔵の時代を経て、江戸時代に出版はされるも、多くの人にその存在が知られるようになったのは20世紀になってからです。和辻哲郎という哲学者が注目し、評論を書いたことがきっかけでした。以来、約100年の間に多数の注釈書・研究書が出されましたが、僕の知る範囲では、未だに信頼に足る解は一つもありません。『正法眼蔵』は未踏峰として聳えています。
ならば僕が、というわけではありません。世界中にいるであろう道元の研究者は一つの大きなチームのメンバーです。それぞれの役割があって、誰かが頂上に到達するための道を作ることも、等しく大切なクライマーの仕事と思っています。前著『跳訳道元』(ぷねうま舎 2017)に続いて、いま『正法眼蔵抄』(仮題)を準備しているところです。
そんな折り、ENOJP (European Network Of Japanese Philosophy) という学会のポスターを見かけました。2019年8月、設立以来初めて日本で開催されることになったその学会に行ってみますと、予想を超えて、世界から注がれる日本文化への視線はいま思想・哲学の領域にまで深く達していることを実感しました。
ぼーっとしている場合か?次の ENOJP-6(ブダペスト 2022)を日本哲学研究のワールドカップとみなし、ぜったい出場しようと、アブストラクトを書き、応募しました。これです。
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日本中世の影と響き
齋藤嘉文
keywords: 所作 モデル メタモデル 道元 定家 世阿弥 利休
「影響」というテーマは、私たちの視線を単一の要素から複数の要素の間に移動させる。淡い影を見、遠い響きを聴くためには、研ぎ澄まされた知覚とともに、それを解放する間(ま)が必要である。日本中世にそのような間が存在したとすれば、それはどんな設(しつらえ)をもってつくられたのだろうか。
試みに定家・道元・世阿弥・利休らの功業を辿ってみると、かれらが互いに離れていながら繰り返し還ってくる主題の一つが浮上する。それを、とほり(通り・透り)という古語で呼ぶことにしよう。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」。歌人は花・紅葉を透って浦の苫屋のあはれを見、茶人は露地から茶室、また茶室から露地へ通って侘びを知り、能役者は夢幻を透って現在を物語る。これらの間にある共通の形式とは、二つの世界の境界を通り、透る体験である。はるか以前、仏教はすでに此岸=衆生と彼岸=諸仏という二つの世界を定義した。しかし彼岸は此岸から限りなく遠い。道元が見出したのは、境界を曖昧にすることなくこれを近づけ、透り、通ることを可能にする論理だった。それを「現成公案」と呼ぶ。公案(諸仏の知・彼岸の知)をこの世界に衆生の所作として現成させるのである。
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「影響」が ENOJP-6 の全体テーマとなっています。日本語ネイティブの感覚からすると、なんでもない日常用語がどうして学会のテーマになるのか不思議ですが、もしかしたら、"influence" が「影」+「響」に訳されることに神秘的な驚きがあるのでしょうか。そんなことも非日本語圏の視点があればこそです。
そして先週、ENOJP からメールが届きました。
「われわれの外部査読者たちがあなたのアブストラクトを検討した結果、日本哲学の領域において、あなたの研究は重要な問題を捉えているという点で一致した... ブダペストで会うことを楽しみにしている」。
おおっ... 深夜、寝床で読みました。蒲団のなかで小さくガッツポーズしました。楽しみにしてるか!よっしゃー、待ってろブダペスト!
旅費を作らねばなりません。目標 €500,000、いや ¥500,000。そこで note に有料記事を書くことにしました。来週からスタートします。もちろん内容は道元、正法眼蔵に関すること、また広く中世日本文化へのその「影響」についてです。もし良かったら、ぜひご購読をお願いします。