空の飛去するとき、鳥も飛去するなり
というわけで、至宝の蔵を開けます。最初に『正法眼蔵』というタイトルの意味とか、道元はどういう人だったとか、説明しておくことがあることはありますが、それは後でゆっくりやりましょう。(「というわけ」がどういうわけかは、前noteをご覧になってください)
宏智正覚(わんし・しょうがく)という宋代の禅師が書き残した、坐禅の極意をテーマとする一文のなかに
空闊莫涯兮、鳥飛杳々。
> 空、闊(ひろ)くして、涯莫(な)し、鳥の飛ぶこと杳々(はるか)なり。
という一節があり、これについての道元のコメントが以下です。
空闊 (くうかつ) といふは、天にかかれるにあらず。
天にかかれる空は闊空 (かっくう) にあらず。
いはんや彼此に普遍なるは闊空にあらず。
空が闊(ひろ)いとは、天にかかっている空のことではない。天の空は闊空ではない。まして、どこにも遍く広がる空間のことを闊空と言っているのではない。
隠顕に表裏なき、これを闊空といふ。
目に見えないか(隠)見えるか(顕)にかかわらず、表も裏もない、これを闊空という。
空はまさに涯しなく広いわけですが、闊空の広さはそんなものじゃない。目に見えようが(顕)見えまいが(隠)、表裏の別がない。これって、メビウスの帯ではありませんか?
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