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三島由紀夫「潮騒」のこと

三島由紀夫は「小説家の休暇」というエッセイで、自作の「潮騒」について次のように語っている。

「潮騒」には根本的矛盾がある。あの自然は共同体内部の人のみた自然ではなく、私の孤独な観照の生んだ自然に過ぎぬ。モデルの島で、潑剌たる若い男女の共同体意識をものとし、その目で自然を見ることができたら物語は何の矛盾もはらまずに語られたにちがいない。

『三島由紀夫全集 第二十七巻 評論(3)』

確かに、三島が言うように「潮騒」の舞台である歌島の自然は特殊である。その自然は主人公二人を助け、彼らに恩寵を与え続けるのだ。それはリアルな自然ではない。
そのような超自然的な仕掛けは三島作品には珍しい。この作品が古代ギリシアの物語を翻案したものだとしても、である。

さて、新治は漁労長の世話になりながら漁をして家計を助けている。父はB24の機銃掃射で耳から上が吹き飛ばされ死んだ。学校の成績はひどく悪く暗愚である。
彼は、夕暮れの浜で見かけた少女の虜になってしまう。
少女は宮田照吉の末娘、初江である。照吉は船主であり宮田家は裕福だ。養女に出されていた初江は、照吉の跡取り息子である兄が死んだため呼び戻されたのである。それまで初江を見かけたことがなかったのはそのためだ。
新治は、島の頂きに登り、物語の冒頭にも現れる神社でこっそり祈る。あの娘と一緒になれますように、と。

新治は観的哨で偶然少女と出会う。観的哨とは、戦争中の軍事訓練施設で、試射場から射ち出される試射砲の着弾点を確認するための鉄筋コンクリートの建造物である。初江は道に迷って泣いていたのである。新治は出会いに胸を躍らせる。
新治が送るというと、初江は安心して微笑む。そして、凭れていたコンクリートの汚れをはたく。平手で叩かれた乳房がセーターの向こうで揺れる。
しかしその日から青年は不安に苛まれるようになってしまう。少女のフォルムが青年を捉えて離さない。笑顔、そして揺れる乳房。
ある日、新治は組合事務所で受け取った金を落してしまい、慌てて浜に戻る。追い駈けてきたのは初江である。初江は新治の家まで金を届けてくれていた。新治は安堵し、二人は人目を避け、船の影で会話する。新治が、安夫が宮田家の入り婿となる噂があるがと尋ねると、少女は笑って否定する。そして、彼女は胸が苦しいと言い、新治に胸を押さえさせる。
ここで、彼女が男を挑発してるのはあまりに明らかである。
あるいは、観的哨で再び密会したとき、初江は何故、雨でずぶ濡れになっていたとはいえ、また新治が寝ているように見えたからとはいえ、男の前で無防備にも裸になったのだろう。
見られていることに気づいた初江は「汝も裸になれ、そしたら恥ずかしくなくなるだろ」と謎めいたことを言う。二人は全裸で向い合う。
初江が「その火を飛び越して来い」と言ったので、新治は火を飛び越え、少女を抱きしめる。
しかし、そこでは初江は、嫁さんになるまでは駄目だと急に道徳的なことを言い出す。全裸になってこっちに来いと言ったのは自分ではないか。結婚するまでは許されないとはもっともな言葉ではあるが、しかし、では、若い男の前で裸体を曝すのは不道徳ではないのだろうか。
初江の言動は、突然の出来事に動顚しているという解釈を許す範囲の中で最大限に男を挑発した上でじらしている。
新治は完全に初江に翻弄され、操られている。彼はますます少女に夢中になるが、当然だろう。

奇妙なことに、三島作品には処女が男を翻弄する話が多い。(一見そうは見えないが、絶筆である『豊饒の海』もそうだった)

しかし、話は歌島の自然の特殊性についてであった。
この物語で、歌島の自然は、三島の「孤独な観照の生んだ自然」である。
たとえば、行商人の提案で行われた鮑取り競争で初江は、新顔にもかかわらず、ベテランの海女を差し置いて見事にハンドバッグを獲得するのだが、それを新治の母にあっさり譲ってしまう。その高価なバッグは、息子の嫁候補に名乗りを挙げる挨拶代わりだ。初江は海女たちを味方に付けることに成功する。
また、新治は荒れる海の中、船の命綱を浮標につなぐという決死の作業を行い、船長の信頼を勝ち取る。新治に惚れ込んだ船長は、照吉に、こんなにいい婿はないぞと太鼓判を押す。もう一人の婿候補だった安夫は脱落し、照吉は新治を婿に迎えることを承諾せざるをえない。
初江を勝たせたのも、また新治の命を救ったのも自然である。つまり、恋する二人を結び付けたのは自然なのである。
そして、極めつけは、初江が深夜、水を汲みに出たときのことである。安夫は初江を待ち伏せしていた。島では、貴重な井戸水を汲むのは厳格な交代制だ。安夫は、その時間割を盗み見て、初江が現れる時間を見計らっていたのである。
安夫は初江を襲う。そんなことをしたら只では済まないであろうことは承知の上だ。最後まで至れば、少女は諦めて口を噤むと思っているのだ。安夫は初江を無理矢理組み伏す。
その場を救うのは、何故か絶妙なタイミングで現れる蜂である。蜂は安夫の項を刺し、その隙に初江が逃げ出すと、安夫は再び彼女を捕まえる。しかし今度は尻を刺されてしまい、安夫はとうとう観念する。この蜂の行動にはディズニー映画の妖精のような非現実感がある。
あるいは、息子を心配する新治の母は海に行き物思いに耽るのだが、そのとき、珍しく黒揚羽(くろあげは)が飛んで来て母の前で舞う。何かの徴を感じとった母の心には無鉄砲な勇気が生まれ、宮田の家に直談判に乗りこむのであった。
また、考えてみれば、観的哨で二人が抱き合ったのだって、自然がまたもや味方して初江をずぶ濡れにし、彼女の裸を見たいという新治の願いを叶えてくれた結果だったのだともいえる。
このように、歌島の自然は特殊である。それは「孤独な観照の生んだ自然」、孤独な男の妄想の物語に従属した自然である。

さて、揉め事も片づき、晴れて婚約した二人は神社に詣で祈る。夜空は星に充たされ、潮騒は規則正しく寧らかにきこえ、自然も恩寵を垂れていたと三島は甘ったるく書く。
最後のシーンは灯台である。二人を頂上に案内すると、灯台長は気を利かせて下へ降りて行く。
初江は桃いろの貝殻を取り出して新治に見せる。あの、全裸で抱き合った日に新治が初江の髪に挿した貝殻である。代わりに、新治は初江の写真を許婚に見せる。少女の目には矜(ほこ)りが浮かぶ。それは苛酷な航海に出る新治にお守り代わりに渡したものなのである。少女は、自分の写真が新治を守ったのだと考えた。しかし、新治の気持ちは違う。彼は、あくまで自分の力で困難を乗り切ったと考えている。
最後の最後で、二人の気持は擦れ違っている。
ここまで、新治を完全に操ってきた初江だったが、既に処女でなくなった彼女の力は消えかかっている。新治は彼女の影響圏から逃れつつある。
物語は、非常にアイロニカルなバッド・エンドを迎える。
二人は決して幸せにならないだろう。二人の間に子供が生れることもないような気がする。二人は神社で幸せを祈ってしまったからだ。
三島の神は常に裏切るのである。
二人は、婚約するまでは確かに何かに守られているかのようだった。しかし、それも、これ以上ない不幸に陥れるためのお膳立てなのかも知れない。
孤独な男の夢のように美しい物語は終わり、島に現実が侵入してくる。


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