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『集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』(仲正昌樹)

これはとても良い本でした。
いわゆる「現代思想」のみならず、日本的な「左翼(サヨク)」とは結局何なのかいまいち分かっていないという保守的な方にもお勧めします。

序では、いわゆる「現代思想」と呼ばれるものが単に「現代の思想」という意味ではなく、フランスの構造主義者と呼ばれる思想家たち以降の思潮であり、それを日本がどう受容し、衰退していったかが全体の見取図として語られます。
そのような意味での「現代思想」とは、旧来の伝統的な哲学の体系や近代化の大枠から外れたポスト・モダニズムであり、それを受容した日本ではニュー・アカデミズムと呼ばれ、ちょっとしたブームを巻き起こしました。
ニューアカは、学際的な知とサブカルの中間に位置し、エンターテインメント化していきますが、90年代にはほぼ収束し、現代思想は「現代の思想」という言葉本来の意味へと戻ります。

次に第一章で日本における左翼の歴史を振り返ります。
戦後の左翼知識人がどのように生まれたか。また、新左翼を中心とした学生運動の挫折。現実と乖離していったマルクス主義が、その隙間をマルクス主義内部の理論によって埋めようとしたために、いかに自縄自縛に陥ったか。そして、革命から転向した「サヨク」たちに、吉本隆明や廣松渉が、いかに理論的なエクスキューズを与えたかという話です。

第二章は、いわゆる「(フランス)現代思想」そのものの話。
大量消費社会の到来により、マルクス=レーニンの資本主義分析がリアリティを失い、その代替理論として、ベンヤミン、ボードリヤールなどが、記号の差異を消費し続ける消費社会を分析し、ポストモダンを準備します。
次に、レヴィ=ストロースやフーコーらの構造主義が、サルトルの実存主義的マルクス主義と対決し、勝利を収めたかに見えたのですが、無意識の構造を暴くことにより西欧的な人間像を破壊したかに見えた構造主義が、実は抑圧に加担し西欧中心主義を強化してしまっているとデリダが批判する。ここからポストモダンが生れます。

第三章は現代思想の日本での受容史です。
当然、まず、浅田彰の『構造と力』が取り上げられます。彼の「シラケつつノル」戦略が、いかに時代の感性とマッチしブームを引き起こしたか。
そして、アカデミズムから飛び出し、自らの分析対象と積極的に戯れてみせるというパフォーマンスを演じ、やはり時代の寵児となった山口昌男、栗本慎一郎、中沢新一ら。特に、栗本慎一郎氏をかなりのページを割いて再評価(?)している点が特異でしょうか。柄谷行人氏はほんの一言、二言で済ませているのに。(もっとも、ある人文学者の方が「全員読んでるのに、誰も引用しようとしないのが柄谷行人」と言っていました。それは文芸批評家とみられていたのが原因なのでしょうか)

そして、ニューアカのブームが終焉したあと、東浩紀を経て、ジェンダー・スタディーズやカルチュラル・スタディーズが左転回して、旧来の左派と合流する。結局は、1970年代以前の分かりやすい左/右の二項対立へと戻ってしまったというのです。

非常に冷めた視点で語られている本なのですが、金沢大の教員である著者は「あとがき」で、学内のウヨクからもサヨクからも責められ、逆に期待されたりする立場を歎いています。著者の一歩も二歩も引いた視点は、そういうところからも来ているのでしょうね。

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