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父親ぶりたい男は父親になれてない

 誰かに喧嘩を売りたいわけではない。もし、その対象がいるのであれば、このnoteは確実に読まれないものだとも思っている。なぜなら、父親ぶりたい人は「父性を履き違えている人」であり、履き違えている人は言うなれば勘違いしている人なわけだ。

 勘違いは指摘を受け、それを受け止め、反省を自認するところから改善の一歩を踏み出せる。指摘を受けただけでは、変われないし、そもそも「履き違え、勘違いしている人」は、耳から入ったとしても脳まで到達しないので、記憶の定着する余地もない。

 変わろうと努力ができるのであれば、そもそも父親ぶるような態度を取ろうはずもないし、自身の態度が「ぶっているだけ」などと気づかない。

 気づけるようであれば、このnoteは目に入るかもしれないが、そのような態度・振る舞いをしてしまう人の目には触れないだろう。

 だから、誰かしら対象がいて、ぼくがその人に向けて書いているのあれば、「読まれないだろうと認識しながら書いている」のであり、わりと小狡(こずる)い態度だとも言えるので、そうではないことをあえて記す。

■「父親らしさ」は幻想

 父親ぶったからといって、自身が求めるだけの「父親らしさ」を獲得できるのかと言えば、それは幻想でしかない上に、まったく持ってありえない話だ。そもそも、父親ぶろうとしている現象自体が父親になれていない事実を裏付ける証拠でもあり、その態度こそ、自身が父親になりきれていない現実を素直に認めているのと同義だ。

 そもそも世の中にいる父親たる役割を、運良く得ることが出来た人たちに問いたいのは、そもそも「父親」とは何者なのかを説明できるか、だ。

 精子の提供者は生物学上の父親なだけであり、血はつながっていなくとも実生活をともにする父親の存在を否定するためだけの説明なので却下。

 「お金を稼いでくる人」だとしたならば、それはただの労働マシンでしかなく、そこに「仕事」をするからこそ得られる感情の揺れ動きが感じられない。相互に作用して生まれる感情の揺らぎを受け止めつつ、促し合うことの意義を理解していないからこそ、自らを労働マシンやATMとして扱われることを認めざるを得ないのかもしれない。

 ぼくは「父親らしさ」を全く理解していない。理解することを放棄したと言ってもいい。なぜなら、それは自らが定義するものではなく、自分と接している役割としての子どもに位置する人物が抱くものだからだ。

 ぼくと生活を共にする子どもたちが抱く「父親らしさ」は、「ぼくらしさ」であり、それは相手が求めるものと提供しているものが=で結ばれる、つまり等価だ。それ以外に彼らにとっての父親らしさは存在するはずもない。

 彼らと共に生活し、父親の役割を担っているのが、ぼくだけだから。

 比較対象となる人物がいるのであれば、それはそれぞれの人物比較でしかなく、「父親らしさ」の比較にはなり得ない。

■あるのはそれぞれの「らしさ」だけ

 つまり、万人に共通する認識、つまり一般論としての「父親らしさ」なんてものは幻想で、それを求めること自体は好きにすればいいが、それを履き違え、勘違いを起こし、父親ぶろうとする態度をとることは見直すべきだ。

 それは同時に、その当人の周りにも言えることではある。自らが抱いているだけの「父親らしさ」を求めることは控えるべきで、その「らしさ」の先にあるのが本当に「その人」を見ているのかどうかを認識するべき。

 例えば、ぼくと生活を共にした父親の役割を担った人物を仮にAとする。しかし、ぼくが求める父親らしさがAとは全く異なる「らしさ」、つまりBであった場合、そもそも求められるものではないし、それをAに求めること自体は非常に残酷で失礼なことだ。

 だから「父親らしさ」なんてものは幻想で求めるべきものでもなければ、目指すべきものでもない。

 正直に、まっすぐ、嘘偽りなく、相手を見つめ、思い、対することで「らしさ」が相手に伝わるだけだ。そう、「父親らしさ」は自分が行動をしてきた結果、相手が抱く「感情」であり、結果論だ。

 自分の在り方を定義し、それを目指すのであれば、それはそれでいいのかもしれないが、それは本当に「自分」であるのかどうかはきちんと考える必要があるようにも思う。

 「自分らしさ」は自分の行動や言動の繰り返し、つまり習慣によって抱かれる印象で、それ以上でもそれ以下でもない。だが、それを高望みした上に誰でもない「父親らしさ」を目指すのは、嘘をつき続ける自分を許容できるかどうかの勝負でもある。

 だが、そんなことをいくらやり続けても仕方がない。

 これから父親になる人もそうだが、すでに父親としての役割を担っている人たちに再度問いたい。

 あなたの抱く「父親らしさ」とは何か。父親ぶろうとしていないだろうか。もし、しているのであれば、それは「あなた」がやっていることなのか。それとも他人が求める誰でもない「父親像」がそうさせるのか。


 今日もお読みいただき、ありがとうございます。そんなことを言いながら、共に生活をする子どもに「〇〇なさい」とか言ってしまって、体格と年齢でマウントしている自分に大きな嫌悪感を抱いてるぼくです。

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ぼく:遠藤 涼介/Endo-san (@ryosuke_endo

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