『ブランド』より『評判』のほうがいい
「ブランド人」ということばがすばらしいものだとなっていて、そこに乗っかってやたらとフォロワー数を増やすような人が増えたように思う1年でした。
その良し悪しを語るつもりもなければ、語る資格も僕にはないとは思っていて、ブランド人っていうのは、ドラゴンボールでいうところのスーパーサイヤ人みたいなものですよね、きっと。
そもそも前提条件がサイヤ人の両親から生まれてきたことや、片親がサイヤ人であることという条件を満たした者だけがなれる、ある意味でレア人材な訳で、ある程度の素養や資質が必要。
それをポッと促されたからといって飛び乗ってしまったも、当然のことながら全ての人がうまくいくわけでもないですし、すでにその重要性を知っていて、動き出していた人たちは、はるか先を行っているわけです。
追いつく、もしくは並び走るにも大きな素養や資質が必要で、その熾烈さは、自由競争というものを実感する貴重な機会であるとともに、自然淘汰の厳しさを思い知る機会にもなります。
ただ単にSNSを取り組んだからと行って、ブランド人になれるわけではありません。スーパーサイヤ人になれるのは、サイヤ人という前提条件を満たしながらも、圧倒的な努力や状況が重なった時に初めてなれるもの。
僕はそれを実感値として得ていることを前提にした上で、やっぱりブランド人という言い方ではなく、違う言い方がいいなぁ、ということを書いていきます。
糸井重里さん『インターネット的』から
僕は糸井重里さんの『インターネット的』を読んでいたこともあり、ブランド人ではない言い方のほうがしっくりくるなぁ、と思ったことから下記のようなツイートをしました。
無論、他意はありません。素直に、僕みたいな人は誰かに向かって強い求心力を持っているわけでもなければ、発信力があるわけでもありません。
妙に納得できるような言説を持ち合わせているわけでもないし、惹きつけられるような人としての魅力も大してないことは自覚済みです。
だからこそ、先鋭的な意味合いを感じ取ってしまう経済用語的な『ブランド』や『ブランディング』なんていう、カッコいいことばには少し遠慮がちというか、離れたところから見ているような気分でした。
糸井さんの『インターネット的』の中に、こんな文章があるんですね。
ブランド戦略、というと新しい考え方のようですが、日本にはすでに「評判」というコンセプトがあったわけですから、そっちの日本人の身にあっている方を研究したほうがわかりやすいと、ぼくは思っています。
あぁ、ステキだなぁ、なんて思ったわけですが、この文章を読んで以降、「評判」のほうがいいように「感じました」し、そのほうが僕にとってはしっくりきた、ということなんです。
この根本は「消費者という人はいない」という考えがあり、売り手と買い手の境界なんてものは曖昧で、瞬間的な立場の違いでしかない、ということ。
Aという商品を買いたいと思い買う人も、数時間後にはBという商品を売る立場に立って行動をするわけです。だから「消費者」なんて人はいません、と。
それを踏まえると、悟空やベジータみたいな人になることは不可能であったとしても、クリリンに憧れ、頑張ってみるという態度のほうが僕にとっては身近で、なおかつイメージがしやすかったんですね。
あるときは控え役ながらも地球の代表として闘う姿を見せていたかと思えば、次の瞬間には超越する存在を側から見守り、彼らの勝利を願う立場になる、という考えに至った次第でもあります。
すると、えとみほさんが...え?えとみほさんリバ邸つくるって...。マジか。
いや、ゴメンなさい。えとみほさんが反応をしてくださり『ブランド人』を『他人からどんなラベルを貼られるのか』と翻訳してくれました。
いろんな体験というか経験をされている方の中から出てくる「言葉」って、翻訳されているような落とし方がされますし、スッと入ってくるだけの腹落ち感がありますね。
えとみほさんがいうように、結局は他人からの『評判』を元にした『ラベル』を貼られることをさして『ブランド人』としているわけですね。
Amazonのレコメンドされた商品にどんなレビューが付いているのかを確認するように、『評判』を元にして行動をすることが目に見えて増えてきました。
一ついえるのは、その評判というものには『人の感情』が内在されています。そのことは疑いようがありません。感情に根ざした評価、というのが評判ですし、周囲の環境や状況を踏まえて上下動する株価のようなものです。
評判のいい人
具体的に『評判のいい人』とは、どんな人を指すのでしょうか。と、自分なりの『評判のいい人』を考えてみるだけでも、大切なことだと思います。
なぜか。
ただただ、Twitterのフォロワー数が多ければ評判がいいのか、といえば決してそういうわけでもないでしょう。
Twitterでいえば、フォロワー数というのはあくまでも結果であり、その増える過程におけるエンゲージメントが重要なのは言わずもがな。
役に立つハウツーやtipsを出し続けるだけ、というのは瞬間的にはいいかもしれませんが、そこには『人』らしさがありませんから、増やすことだけが目的化してしまう人が生まれてしまうのかもしれません。
冒頭の通り『ブランド人』なる言葉が流行り始めて1年ほどだと思っているのですが、その中でやたらとフォロワーを増やすためだけに費やしてしまった人もいれば、しっかりと『人』として魅力を発揮してきた人もいます。
田端信太郎さんさんだって『ブランド人になれ!』から得た着想から役割を演じてるだけかもしれません。
過去に田端さんの『MEDIA MAKERS-社会が動く「影響力」の正体』を読んでたからか分かりませんが、田端さんがそんな風に推し進めることの前提には触れていたのかなぁ、なんて思ってます。
MEDIA MAKERSの中で田端さんは『メディア環境において発信者から受信者へと主導権が移行している』ってハッキリ書いてるんですよ。
情報の主体が発信者側ではなくて、受信者側に変遷してるっていう、今でこそ当然であり、確実にわかってることを明確に書いてくれてたわけです。
受信者側が情報の主体になる、ということは、個人で発信したものでも、大きな組織が発信したものでも、受信者側が『選ぶ対象』になり『選ばれなければならない』とも言えるわけです。
それは『個人』からも『組織』からも。
田端さんのように、他人から確固たるラベルを貼られている人は名刺なんていりません。イチから自分のことを説明する必要がありません。
『個人』にも『組織』にも。
勝手に話題に上がってくる、というのが『評判の人』たる所以だとしたら、田端さんは自分の預り知らないところで話をされる機会がメチャクチャあるでしょう。
そして、田端さんは今でこそ、ZOZOにコミュニケーション室の室長として所属していますが、彼がやりたいと思える環境以外で話題に上らなくていいと割り切ってるんじゃないでしょうか。
コミュニケーションの手段が『マス⇒プライベート』化している現状を踏まえると当然の帰結で、新聞やTVの中で話される大衆向けの情報には無関心になり、スマートフォンなどで自分に関係のある情報へシフトしています。
だから個人でも組織でも、その情報源を取捨選択する時代になってきていて、その中で個人の趣味嗜好を起点としたが勃興しては消えてを繰り返しているのが現在のオンラインサロンの動きでしょう。
評判のいい人、というのは、そんな個人や組織が選択できてしまう自然淘汰的な競争世界の中で『選ばれる人』になるでしょうし、選ばれるだけの魅力がある人、となります。
誰でも、というわけにはいかないのは仕方ないです。僕たちが住む日本は民主主義国家で、そもそも民主主義というのは人気投票によって代表者となる為政者を決める仕組みです。
大なり小なり、それを政治とは切り離したとして、生活に関係しそうな情報を提供してくれる人たちや、自分を助けれてくれる人として見たとき、多くの人たちに支持される人が残るのは必然といえます。
だからこそ『ブランディング』という"それっぽいことば"でごまかすのではなく、『評判』という馴染んでることばで表現していきたいと思う、この頃です。
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