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#大人になったものだ なんていえるわけない

<ぜんぜん大人になんてなれない>

もうタイトルのまま。偉そうに大手をふるいながら「俺も大人になったよなぁ...」だなんて、いえるものか。到底いえるものではない。

自宅に帰り、自宅アパートの玄関を通り、部屋に入るためのドアをイマイチ締めきれないところなんて、一緒に生活をする子どもたちの方がよほどできる。

一緒に夫婦生活を送ろうと決めた女性が不満げな顔をしていることに対して、そんなこと(彼女が怒っているという事実)は百も承知なのに、あえて知らない様な態度をとってしまうこともそうだ。

極めつけはそう、最終的に「どうにかなる」と考えていることにある。

僕が幼心に抱いていた大人というのは、普段は難しい顔をしている割に、お客さんという、別の大人と面したときには飛び切りの笑顔で「ありがとうございます!」とハッキリとした声で届けようとする人のことだ。

知っていることばをつなぎ合わせたら「割り切る」ことができる人、それが大人という人なんだと思う。

<「本音と建前」が大キライ>

けど、僕はそれができない。ちゃんと言えば、できないわけではないけど、自らが進んで割り切ろうとはしたくない。

そんな環境に慣れ親しんでいる大人たちがよく使う「本音と建前」ということばが大キライだ。

自分が気持ちよく、相手に届けたいと思う気持ちが素直に載せられるような事物の場合は、ドンドンと気持ちが前のめりになり、その感情を相手にストレートにぶつけていける。

それとは別で、まったく気乗りしないというか、後々自分のことを苦しめなければならないような状態になることを、まるで平気な顔をして実施しなければならない、ということは許せない。

許せない、というよりも、イヤだ。

そんな状況を生み出している自分自身もイヤだし、それを甘んじて受け入れざるを得ない環境になっていることもイヤだ。

なぜ、大人と呼ばれる人たちは、それを「諦めること」で解決しようとするのかが理解できない。

理解できないというよりも、そんなことを伝えると、まるで僕がいっていることは「おかしい」のだと言わんばかりに憤怒するか、「そうはいってもさ...」と諦める方向に話を持っていこうとする。

そうじゃない。僕はそんなふうな答えを求めていない。

そうではなくて、互いに冷静な状態を保ちながらも、こう、アツく、互いの主張に対して、認められるところと認められないところを探り合いたいのだ。

僕も1月を迎えて、30代も半ばに差し掛かる頃になってきた。

ハローワークなどの求人には35歳まで(若年層、云々)という表記がイヤに現実的になってきているし、30歳までという表記は大きく通り過ぎた。

もう、立派なおじさんなのだ。

そう、僕は自分がオジさんになってきた、という自覚はある。だけど、大人になった、という自覚はこれっぽっちも持てない。

この違いを考えなければ行けない気がした。

<オジさんと大人のちがい>

もう、身もふたもない話なのだけれど、これはもう、見た目だ。

髪の毛の質感もそうだし、肌のツヤ感もそうだ。傷が治りづらい上に治った後の皮膚が、こう、淀んでる感じがする。

顔にはシワが増えてきたし、ほうれい線ってやつですか?も目立つようになってきた。

運動をすることで10代の頃は、ピシッとしまっていたような気がする身体も、年齢を重ねるごとに10代の頃なんか比較にならないぐらいに努力をしなければピシッとしてこない。

年齢を重ねる、というのは、誰もがオジさんやオバさんにしてくれるんだ、ということを少しずつ自分の体を見ながら実感している最中だ。

ただ、「オジさん≠大人」だ。

これはもう、似てるけど違う。

オジさんは身体的なもので、大人は精神的なものだとして僕は考えている。

年齢を重ねたからといって、精神的な熟成がなされるのかと言えば、すべての人に対して適応されるわけではない。

大人、というのは品格のことだったり、真摯で、誠実で、丁寧な人のことなのだと、オジさんになった自分は痛感しているわけだ。

だからこそ、僕はとてもとても「大人になったものだ」とはいえない。

いえないのだけれど、一つだけ実感していることはある。

子どもと生活をする中で、自分の考えを問われることが多々あって、その機会に触れるたびに、少しずつかもしれないけど、成長しているような気がしていて。

それを実感できているということが、少しは救いかもしれない。

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