母親である妻への接し方(ヒント)
先日、父の日が終わったのに際して、父親の役割について自分なりに考えてみた記事を書いた。
子どもたちは、たまたま縁があり、望む望まないは別にして、ぼくと妻の元へやってきてくれた。つくづく、自分が父親であるのだ、と考えるのと同時に、彼らと生活ができてよかったなぁ、と思う。
同時に、本当に甲斐性なく、フラフラと何とか生きているようなフニャフニャな人生を送っているぼくと結婚をしてくれたのにもかかわらず、ことごとく自身の希望は叶えられなかったのかもしれない妻には、改めて感謝しかない。
恥ずかしい限りだけど、ぼくはとても世間に誇れるような「ご主人」ではなく、下手したら道端でつばでも吐き捨てられるのではないか、と思うぐらいに情けないやつなのだ。
それでも、いま、こうやってnoteを書けるのはすばらしいパートナーである妻がいてくれるからこそだと、書きながら痛感している最中である。
今回は、妻の座布団にもなれていないぼくだからこそ思う、結婚した相手である妻を大切にするための方策について書いてみたい。父の日企画から連動した本記事は、妻へのおべっかをするものではなく、すでに結婚をしている方や、これから結婚を控えている方に送る激励文だ。
是非、参考にしてもらいたい。
(前提として)思考体系が異なる生き物だ
よく、男性脳と女性脳とは機能が異なるのだ、なんて言われるが、結婚をし、共に生活を始め、子どもとの生活がはじまり数年経過したぼくの雑感としては、本当に「その通り」だ。
いや、ここで男性と女性を分けているのは、肉体的なそれではなく、性格的な、もっといえば「こころ」の奥底にあるもの、ぼくはこれを士郎正宗から借用し、ゴースト(Ghost: 自我や意識、霊性を総称したもの)と表現しているが、それぞれのゴースト(Ghost)が個性の一つとして育み、表出しているのが女「性」。
「脳機能」が異なるのだから、例えば家事、たとえば掃除をする際にも、「気になる点」がズレてくるのは致し方がない。ぼくなんかが掃除を取り組むと、小さな点を見るのではなく、総括的に全体が整理され、キレイになっているのであれば満足ができるし、その様に進める。
しかし、彼女はそれでは足りないと判断する。何が足りないのかといえば、物を動かして掃除機をかける、なんてのはぼくだってやっているが、そこから更に人目につかなそうな場所までやりはじめ、とことんゴミやホコリを追い詰めて片付けなければ気が済まないのだ。
だからといって、「そんな細かいところまでやるの?」なんて口走ってはいけない。それはいらぬ口といい、開こうものなら、あなたはその何倍もの言葉で蹂躙され、タコ殴りにされた結果、「掃除をやった事実」にまでケチをつけられ、大変面白くない気持ちを抱いてしまう。
「細かいところまで気がつくね、ありがとう。」
そう感謝を述べるのだ。結論としてのアドバイスなど不要なのだ。眼の前で掃除をしているのは、ウブでかわいい女性ではなく、ホコリやゴミを限りなく排除しようと無心で動き続けるマシンだ。
あなたが抱いた気持ちなど、彼女の前では物足りなすぎてヘドがでてしまうほどの手練であり、マスターだ。繰り返すが、そっと感謝を述べる。それが最善であり、最高なのだ。
彼女の危機予測は行き過ぎだと感じるが納得する
子どもとの生活が始まれば、彼女の言い分はさらに説得力のある、もっと言えば納得感しかないものとして先鋭化されていく。
たとえば階段、トイレ、お風呂、ソファ、イス、とびら...。これらは全てまだ小さい赤子にとっての凶器と化す。
少年期から青年期を経て、中年期に入ってきたぼくみたいな肉体的な大人からしたら、何の問題もないそれらは、生まれて間もない乳幼児期から幼児期にかけては非常に危険だ。
段差があろうものなら登る。落ちる危険性など彼らは考えないからだ。落ちるときは重たい頭から落ちるのにもかかわらず、彼らにそれを気にする余裕など持ち合わせてはいない。
むしろ、進んで落ちに行くかのような態度で喜び勇みながら階段や段差、ソファやイスなどにガシガシと登り始める。
扉やドアなどあろうものなら、すぐに開ける。開けるならまだしも、中の道具を一切合切出し始めては、口に入れ込もうとする。その最中に扉やドアを開いては閉じ、閉じては開いてをひたすらに繰り返す。
その最中は危険しかない。もし菜箸などを口に入れたままに転ぼうものなら刺さってしまうかもしれないし、ドアを開け閉めする中で、指があるのを認識せずに体重をかけながら閉めてしまい、指を挟むなんてことも起こりうる。
トイレで、もし彼らが謝って便座内に頭から落ちようものなら、溺死してしまう危険だって潜んでいるし、お風呂では親が頭を洗っている最中、静かに溺れて行くのは、決して珍しいことではない。
自宅内には、そんな危険なスペースがたくさんあるのだ。
ぼくがなぜ、これを書けるのかと言えば、答えは簡単だ。そう、ぼくはこれらの危険性を妻からひたすらに言われ続けてきたからである。
ドアを少しでも閉め忘れようものなら、玄関から落ちる危険性を説かれ、風呂で彼らを洗っている際にはシャワーで溺れる危険性を説かれる。
思いつく限りの危険性を十分に把握するのに、それほど時間は必要ではなかった。何よりも我が家は5歳、3歳、1歳と、ほぼほぼ等間隔で彼らの危険性を認識しながらの生活をしてきたのだから当然の帰結とも言える。
これは妻をなじりたいのではない。彼女をはじめ、妻たる人たちは危険性を先の先の先のさらに先まで見通した上で、完璧な安全配慮義務を果たそうとしているのだ。
その上に料理など重なっているのを想像してみてほしい。
一人暮らしの時に料理をするのを面倒だと思う人は少なくないだろう。しかし、子どもがいる生活ともなれば、どんなに楽をしようと思っても、人数分の食事を用意しなければならないし、用意をしたところで気分がのらないからと「食べれない」なんてザラにある。
それでも心をくじけてはいけないのだ。なぜなら、彼らは食べなければ死んでしまう。料理をしたくないから食べない、などという選択肢は彼らとの生活において存在はしない。
腹が減ったと泣きわめき、終いには兄弟で喧嘩を始める。噛み付いたり、叩いたり。その中でも安全配慮をしながら、調理をする。ものすごいバイタリティであり、それを支えるのは子どもたちを思う「こころ」、つまりゴーストが囁くのだ。
そんなスーパーウーマンがいうことを納得しないわけがないのだ。
最もプライオリティが高いのは謝罪(/感謝)と姿勢だ
子どもと共に生活をするのは、決して楽ではない。自分以外の人格と生活を共にするのには、それなりに準備がいるし、妥協点の探り合いをしなければならない。
大人ならいい。しかし、子どもが相手となればそうはいかない。妥協点の探り合いなど存在しないからだ。あるのは真っ直ぐな気持ちと態度、そして大きな泣き声だ。
しかし、共に暮らす家族の中で、誰よりも彼らのことを思い(いや、ぼくだって負けてはいないのだ!)、誰よりも命が危険に晒されるのを防ごうと必死になり、誰よりも優しく彼らに接し、時には誰よりも厳しく当たる。
そんな彼女に結婚相手であるぼく、ぼくらは責められる。時には些細な喧嘩だと思っていたのに、数年前の一言と持ち出されたりし、あまりにも理不尽な物言いを受けたりもした。
最近は、その数もめっぽう少なくなってきたので、なんとなく人間としての尊厳を保ってられるような気もするが、連日続いた時などは気がきではなかった。
ただ、仕方ない。生き方や考え方が異なるのだから。理解できないこともあれば、納得のできない夜もある。そう、違う存在なのだから。そして、そんな相手に対して有効なのは、謝罪(/感謝)と寄り添いだ。これしかない。
上でも触れているが、自分がいくら仕事を頑張ったところで、マルチタスクを数時間でもこなさなければならない状況で、小さい命の安全配慮まで行わなければならないのは大きなストレスだ。
どんな大切な仕事も、それに敵うものはないとぼくは思う。
むしろ、彼らとの時間を確保できないことは人生における損失以外の何物でもない。それを妻は分かっているのだ。だから必死になる。ぼくに優しくする余裕があるのであれば、少しでも子どもたちに対して慈悲の心を持ちたいと考えているからこそ、冷たくするのだ。
そう、つまり「子どもを思う気持ち」は一緒なのだ!...なのだ!
だからこそ、余裕がない相手(妻)に対し、我々は余裕を持って接するべきだ。いくら理不尽な物言いをされたところで、彼女のやっていることに比べれば大したことなんてできていないのだから、謝罪しよう。ごめん。そして、ありがとう。
共感をして寄り添うのだ。答えのない、全くオチのない会話に共感だけを持ち込むのだ。共感し共感し共感し続ける。
それによって話のわかる奴になり、自分の話も聞いてもらえるような状況になる。そう、全ては相手に何を話すのかといった答えの導き方ではない。回答を出してはいけないのだ。あくまでも寄り添う。まるでソファに置いてあるぬいぐるみかのように寄り添うのだ。
なぜなら、「子どもを思う気持ち」は一緒なのだから!なのだから!
以上、まとめません。