#クリスマス に期待すること
敏感な長男
我が家の長男は周りの空気に良い風に捉えても、悪いように捉えても敏感だ。この年代の子どもたちというのは、多かれ少なかれ「空気」にすごく敏感なのだと痛感することが多々ある。
子どもと生活を共にする友人たちと会話をしていても、自分と他人の境目を一定程度の認識をできるようになった子どもたちは、親同士のケンカに対して敏感に反応し、自分の願い(やめてほしい)を伝える行為にでる。
その行為はそれぞれの性格に由来することが多いのかもしれないけど、言葉にすることもあれば、行動として表現することもあれば、様々なことはそれとなく感じてる。
我が家の長男も、共に生活をする身としては、心配になるぐらいに気を使うことがある。
それは共に生活をする、僕や妻が接している態度がそうしているのかと思うと、反省する部分もあるのだけれど、彼の性格は「優しく、大らか、真面目」という非常に普遍的なもの。
先日は、次男に対してちょっと怒る母親に対して「ママ、いつも次男が怒らせてごめんね」などという、誰に習ったのだという語句を並べては母親にぶつけていた。
もちろんのこと、母親は撃沈していたワケだが。
そんな敏感な長男は保育園に通う他の園児たちとのコミュニケーションの中で、自分と他人の比較をしながら、「けど、自分はこんなダメなところがある」と自らを卑下するようなところがある。
どういうことなのかと聞くと、「〇〇をしていると〇〇(鬼や悪魔など)が来るってよく言われるから」という、我々が脅し文句的に使ってる表現をとり、それを繰り返す自分はダメな人間なのである、という解釈らしい。
これは困った。
軽々しく脅し文句をいい、割と怖がるものだから面白半分もあり、使用していたことが、いつの間にか使用過多な状態に陥っているではないか。
結果的に、現時点での彼の様子をみる限り、決してうまく運べていないのかもしれないことを痛感するのだけれど、その都度、彼らに対する態度を試行錯誤している、というのが我が家の実情だ。
そんな我が家にも世間で騒がれるイベントは、他の家庭と同様に訪れる。
クリスマスを迎えた我が家
僕は正直なところ、クリスマスなど別に対して何の感情も湧かない。
子ども心に思っていたのは「何を買ってもらおうか」という打算的に購入品目を考えていたぐらいで、誕生日と近いこともあり、購入してもらいたいと思えるものが多々ある時期だったことぐらい。
ただ、いつまでもそうは言ってられない状況に陥ってきた。
お付き合いをしてくれる彼女ができれば、彼女たちは「何の感情も抱かない」などという僕の価値観に共感をしてくれることなどないわけだから、それに合わせなければならないことも。
26日を迎えれば、一気に値段が下がることをわかっていながらも、自分たちはロウソクと線香を数珠を使っていながらも、販売促進の機会だとわかっていながらも、その24、25日という日にちを大切にする。
それに対しての理解も納得もできないまま、僕は子どもとの生活を迎えた。
いまでは気になって仕方ない。
当時、僕と付き合ってくれていた彼女たちには申し訳ないが、当時とは比較にならないぐらいにクリスマスとやらが気になって仕方ないのだ。
長男は誕生日が先月迎えたこともあり、「(自分は)誕生日とクリスマスが近いから、サンタさんから何ももらえないよね?」と笑顔でいってくる。
な、なんだ、何だこのあまりにも重過ぎるぐらいのプレッシャーは...
別にあげない、ともあげる、とも僕や妻は述べていないし、サンタクロースの存在さえ、いるともいないとも名言をしていないどころか、それらしい会話など繰り返ししているわけでもない。
それでも、保育園という彼の中での大きな社会は、その空気が蔓延しているがために、否が応でも彼の耳や目には「クリスマス=サンタクロース=プレゼント」という=(イコール)の安売りがなされているのだ。
もちろん、金銭感覚がまだない長男は「値段」というものがまだまだ理解できていないため、安売り、などという大人じみた言葉はわかっていない。
ましてや、自らの財布を持ち、僕とともに近所のスーパーで、自らのお小遣いの中からお菓子を買った時には、108円のお菓子に対して200円を支払った後に、帰ってきた92円に対して喜ぶ。
要は、枚数が増えたことに嬉々とし、満面の笑顔でこういうのだ。
「よっしゃ、増えた!」
そんな彼も、5歳を迎えた上でのクリスマス。
我が家にはいま、2匹の恐竜が彼らの目覚めを待っている。
さぁ、なんて声をかけよう。