フィクションでしかないのだと思ってた
命を張った時間稼ぎなんてフィクションの中でしか出会ってこなかった。
アニメでも、マンガでも、TVドラマでも、それは書き手や読み手が、あるキャラクターに対して抱く願望を反映させたもので、「そうであってもらいたい」「そんな感情を揺さぶるような演出であってほしい」なんて期待への応答でしかないと思ってたし、そうでしかないと思ってた。
現実、その期待に応えようとしているからこそ、"そのように"制作物として仕上がり、期待通りに我々の目に届いてくるのだと。
つまり、誰かが期待をするからこそ、フィクション、創造(想像)物として筋書きをする中の、アクセントとして添えられるものだとしか思えなかった。
だけど、それは現実として起こっていたし、身を呈して、それこそカラダを張って子どもたちのために、子どもたちを守るために行動を起こした人がいたことを知り、自分に対しての無力感を感じてしまっているところです。
川崎市登戸で起きた連続殺傷事件で、残念ながら12歳の少女と成人男性が亡くなってしまいました。
亡くなった男性は、お子さんを登校に付き添っている中で、突如としていわれのない暴力に晒され、結果的に命を落としてしまったわけですが、下の記事内では、なんとか子どもたちを守ろうとした小山さんの行動について触れられていました。
記事内でも触れられているように、状況から小山さんは一番初めに容疑者から切りつけられ、その後3回、合計4回も刃物で攻撃されたにもかかわらず、文字通り、命を張って子どもたちが逃げられるように犯人の足止めを行なっていました。
もし、それがなければ、もっと多くの命が奪われていたのかもしれませんし、もっと深手を負う人が増えていたのかもしれません。
「たらればでしかない」といえば、そうかもしれないけれど、たしかにそのように行動を起こした人間がいて、その人間が命を落としてしまったのである事実は変わりようがありません。
これを読みながら、ぼくは大いにショックを受け、読後、しばらくは意識が自分のカラダを離れ、どこかを漂流するような心持ちになり、回復するまでに時間を要しました。
その現場を想像すればするほどに、現場の緊張感や緊迫感は本当に想像の域を出ませんが、とてつもなく軽々しく、重苦しいものだったのではないかと思います。
いともたやすく刃物は振り回され、容易に人が傷つけられていく様は、実感を得るのは何を持ってか、どうしたら実感するのか、わかりません。
ただ、実感した瞬間が遅いのか早いのかはわからないながらも、恐怖や驚きが湧き上がってくる際にはとてつもなく鈍重で、抱えきれなくなるものだろうと想像はできます。
どれほどの傷か、痛みの度合いはどれぐらいだったのかなんて想像もできません。ただ、包丁で指を切った際には、血が出てくるのと同時に痛みを実感していたのを思えば、とてつもない痛みを抱えるであろうことは想像にかたくありませんし、その現場にいたとして、次の瞬間に動けるでしょうか。
自分が一番先に攻撃を受けたと実感し、そこから目の前で子どもたちへ襲いかかろうとする犯人に対して、必死に行為を止めようと行動を起こせるでしょうか。
そうしたい気持ちは抱いているつもりでしたが、いざとなった際の自分を想定できていません。今回の記事を読み、自分の「覚悟のなさ」みたいなものを嫌悪しています。
だって、生きたいです。
子どもとの時間をもっと楽しみたいし、自分自身が取り組む行動で他人のためになりたいです。
でも、死を迎えてしまったら、そんなものは一切できなくなりますし、その時間すら、自分以外の人間にとっては「思い出」として記憶の片隅に追いやられていくのみです。
死んでしまえば、そんな感傷は意味をなさないのかもしれません。ですが、生きている以上、その感情すらも大切にしたい。
もしかしたら、痛がっていて、起きれなくなっているかもしれない。
もしかしたら、もう少し頑張れば立って犯人の元へ迎えるのに、ずる賢い気持ちが芽生えてしまい、やり過ごそうと思ってしまうかもしれない。
もしかしたら、実は軽傷なんだけど、自分の子どもだけをなんとか見つけて走って逃げ出すのかもしれない。
その瞬間で何を考えるのかはわかりません。
ただ、他人のために命を張るって、カッコいいだけじゃ済まされない「ことばにもできない覚悟」みたいなものが必要なんだろうと思うのです。
想像すればするほどに、怖くて怖くて仕方ありません。その恐怖を乗り越えて、踏み越えて、目の前の凶行に対峙しにいくだなんて、並大抵の胆力ではないし、小山さんの持つことができた、その"つよさ"に畏怖します。
いざとなれば、子どもを守ろうと必死になるのかもしれません。自分が逃げ出したら、さらに悲惨な状況になるのだと思えば、行動したいとは思ってもいます。
ただ、ぼくは今の所、自信がありません。
こんなことを書いていては情けないと思われるかもしれませんが、怖いのです。
その覚悟を常に持ち歩いていなければならないのだと、スマートフォンを持ちながら外出するよりも、さらに自らのカラダに近い部分、もしくはカラダの中に潜ませておかなければならないののだと実感する記事でした。
とても真似できるような行動ではありませんが、少しでもその覚悟を模倣できるような人間でいようと思った次第です。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。書いていて情けない気もしましたが、その怖さを受け止めないと次に進めないような気もしています。
ぼく:遠藤 涼介/Endo-san (@ryosuke_endo)
#スポみら (元 #スポーツの未来に僕たちができること )オーガナイザー。 第一弾、新潟経営大学イベントの資金調達を目的に行ったクラウドファンディングは3サイトで募集し、すべて目標達成(総合達成率140%)#新潟 を #前向きな空気の溢れるエリア にすべく活動中。