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GIGAスクール構想で実現したいのは「教育の機械化」だ

 現在、全国の小中学校では文部科学省の掲げるGIGAスクール構想を実現するためのインフラツールであるタブレット型端末やPCが児童生徒に配布(貸与)されているが、それらを利用したいじめが発生し東京都町田の小学6年生が自殺してしまったことを受け、批判するような報道や意見が散見されるようになった。

 しかし、だからといってタブレット型端末やPCの貸与や配布をやめてしまえるのかといえば無理だ。この動きをやめてしまうことの方が子どもたちの弊害になることを想像できない人は少数派だと願いたいが、高齢者をはじめとしたタブレット端末やPCへの忌避感を抱く層はどうだろうか。

 どうも、えんどう @ryosuke_endo です。今回はタブレット型端末を利用したいじめ問題からGIGAスクール構想で得たいはずの状態とはどんなものなのかを考えてみたい。

▶︎ GIGAスクールは「教育の機械化」を果たしたい

▷ 市井の人たちの経済状況

 上記の町田でおこった悲しい出来事を見ていくとパスワードの杜撰な運用など見られる。端末配布後の運用面を改善する必要があることは明らかだ。ただ、それ以上に考えなければならないのは一人ずつ端末を配布することによって何を得たいのか、どうすることがゴールなのかだ。

 この認識を合わせられなければならない。ここが揃っていないのに批判も肯定もできないだろう。

 そうなってくると、そもそもの説明が必要になるはずだが、今回の町田で起こったいじめからの自殺にまで至ってしまった件を踏まえて出されている批判的な意見を見る限り、それを提示した上で批判している媒体はない。これは仮の話だが、そこにまで思考が至っていないのか、それともわかっているけれど黙っているのかのどちらかだろう。

 日本人の平均年収が1989年に402万に到達して以降、2021年現在でも436万、最も高かった1997年でも467万円だとしても明らかに横ばい傾向であることは経済の停滞を意味するだろう。しかも社会保障負担率はおおよそ15%で、消費税は10%ということは1989年当時よりも実質的な手取り額は25%以上が減っていることになる。

 日本の富裕層は増えているという調査結果があるのに加え、金融資産がない世帯が最低でも2割はいるという調査結果もある。これらから「日本の中には明確に格差が生じている」とされるが、果たして本当にそうだろうか。

 以下、低所得世帯と高所得世帯の所得推移であるが、1994年をピークに高所得者だろうが低所得者だろうが関係なく、等しく貧しくなっていることを示している。

社会実情データ実録『図録 家計調査による所得格差の推移』
http://honkawa2.sakura.ne.jp/4663.html

 つまり、金融資産を多く保有する世帯は60歳以上の世帯、つまりは現役世代ではない。勤労者世帯における所得格差はむしろ狭まっており、格差を埋めることよりむしろ格差を生み出せるほどの経済成長を果たさなければならないのではないか

▷ 子どもたちの可能性を潰すな

 上記で扱っている町田で起きた事件は非常に悲しいことであるし、日本中で未然に防がれている、もしくは把握されていない事案まで含めると同じようなことが起こっていることが予想できる。

 だからといってGIGAスクール構想やタブレット端末を子どもたちから取り上げるなどのことがあっていいはずがない。

 以下の記事にもある通り、創造性を育む上で自身の能力を拡張できる機器やツールは必須である。自宅で絵を描くことができない子も、PCを利用できない子も等しくそれらを扱える機会を得られている現状を否定することなどあってはならない。

 児童生徒たちが自らの両親という、自身ではどうしようもない条件によって機会が損なわれることは害あっても利はない。その機会を得ることによって経済的に所得を引き上げの期待ができるのであれば、その可能性を高める方向で進むべきだ。

 それをこれからの期待値が時間と共に少ない老人や大人たちの保守的な意見や見方によって潰されていい理由はない。

 いじめはなくすことができないだろうが、それを運用によってカバーやフォローできる体制を構築すること、そしていじめる側を擁護するような状態としない毅然とする態度を取ることの方が大人たちには必要だ。
 被害を受けた側も警察への通報などを前提にすることで件数を減らす努力をすべきだろう。

 結局、学校に行かずとも学べる機会を提供することが叶うのがタブレット配布による効用の一つである以上、その機器やツールを児童生徒から奪うことは将来への可能性を否定してしまうことになる以上、避けるべきだといえる。

▷ 目指すは「教育の機械化」

 GIGAスクール構想が発令され、2020年から児童・生徒に1人1台のパソコンが配備されたが、これは閣議決定されたものだ。これを否定するためには再度閣議決定されなければならないが、そんなことに時間を使うことも無駄である。

 何より、教科書やノートが電子化されネットの世界に接続された状態になったことで得られるのは児童・生徒の個人ごとのデータを収集できることにより、個人最適な教育が可能となることだ

 これが教育のデジタル化を考える上での本質である。

 教育現場にコンピューターを導入することだけで何もかもが望むような結果を得られるばかりではなく、むしろ教科書などのツールばかり増えるために害悪となってしまう可能性すらある。

 ハードを貸与・付与することでインフラ整備をすること自体はゴールではない。あくまでもそのハードで起動されるソフトウェアがデータを吸い上げ、そのデータを有効に活用することによって個々へ最適な教育を自動的に提示できるような「教育の機械化」が果たされることこそ、デジタル教育のゴールなのだ。

 この本質を踏まえず、感情的に意見を垂れ流してしまうことや、それに流されることは日本という国の将来を考えた上で本当に大事なことであるのか。

 それらをきちんと考察、実行できるような人間が増えることこそ人数が減っていく上に高齢者ばかりが増加していく絶望的な経済状況の日本を将来的に救うことができるだろう。

 勘や経験に頼った教育から本格的に脱却し、日本経済を浮上させてくれる可能性を抱く児童・生徒たちが自らの可能性をドンドンと拡張していくような状況を生み出していく土壌を築けるのだから、大人たちは喜んで害悪の部分を見るのではなく、本質的なことを認識・把握することを心がけたいものである。

 ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 参考になる紹介したいnote

 デジタル庁の資料を紹介してくれているnote。デジタル庁は教育の現場でデジタルを利活用を模索しているが、その内容を資料で説明している。

 そもそも教育の現場だけがデジタル化を遅らせているわけではない。日本社会に属する企業で、いわゆるデジタル化を「ハードの整備」だと思い込んでる人たちにも当てはまるのだ。そういう人たちに限り、自分たち好みのソフトウェアを用意しようとする。そうじゃないよな、と気付かせてくれるnote。

 本noteの文末にある『時代に沿った教師像』という語句があまりにもしっくりきてしまった。そう、教員たちは自分たちの既得権を守ろうとするのではなく、子どもたちの未来を守ってほしい。学びの機会を自らの課すためにも、教育の機械化は本腰を入れるべきだ。

 書籍紹介のnoteだが、そもそも教育とは何を目指すべきなのかを考えるにあたり、デジタル化はただただデジタル人員が不足するからその補填をするためのものではないことを自覚する上では紹介されている書籍は有意義なものだ。

▷ 著者のTwitterアカウント紹介

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