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#部活の思い出 かぁ...なんだろうなぁ...(帝京長岡高校サッカー部OBの思い出)

どうも、(おはよう。こんにちは。こんばんは。)えんどうです。

#部活の思い出 を問われたら何があるかなぁ...と考えてみました。すでに人生の半分以上前の2年半ほどしか期間がありませんから、それを上書き保存される記憶の方が多いため、印象的で特徴的なことしか覚えていなかったりします。

「これはいかん」と思ったのもあり、ちょっと真剣に思い出しながら書いてみようかなぁ、とタイピングし始めました。

いまは「強豪」の「黎明期から過渡期」に在籍

まず、初めに断らなくては行けないなと思っているのが、ぼくにとって部活動の思い出といえば、まともに語れるのは高校時代ぐらいしかないことです。何をしてたのかというと、サッカー部にいました。

2021年現在では全国大会でも勝ち残れるようになった帝京長岡高校のサッカー部です。ぼくが在籍していた当時は2000年〜2002年の間で、そういえばぼくが高校三年生の時に日韓W杯が開催されました。

今では全国大会でも「結果」を期待されるようなチームになっていますが、ぼくが入学した2000年にはじめて全国高校サッカー選手権大会へ新潟県代表として出場することができたぐらいで、まだまだ新潟県内でもベスト4以上にも残ったことがなかったチームです。(以下、公式Webサイトの戦績一覧ページがありますので貼っておきます。)

ぼくが在籍していた2002年から10年後の2012年には全国大会でベスト8まで勝ち残り、そこから7年後にはベスト4。さらに2年連続でベスト4まで勝ち残ったのですから「強豪」と呼ばれるに相応しい実績でしょう。(チーム内のスタッフが満足していることはないとは思いますが、客観的にはすばらしいと思うのです。)

そんな今でこそ輝かしい戦績を残している帝京長岡高校サッカー部の黎明期から過渡期に入ろうとする中で在籍していたOBの学びというか振り返り、いや、思い出です。

目標を下げずに「求め続けられること」

現在、監督は古沢徹さんはぼくが3年生の頃の2年生。精神的にもプレーでもしっかりとしていたことを思い出します。高校を卒業した大学生時も東京の大学に通っていたのにもかかわらず、長期間の休みになれば常にグラウンドへ足を運んでましたし、人生の大半を帝京長岡高校サッカー部に捧げている、まさに帝京長岡高校サッカー部の体現者といえます。

ぼくや彼が学生当時、指導をしていたのは現在も総監督を務める谷口哲郎先生。帝京高校(ぼくたち分校生は"本校"と呼称していました)出身で、全国大会で優勝した際のメンバーでもありました。いわゆる「勝ったことのある人」で「勝つチームのあり方」を知ってる人だといえるでしょう。

上でぼくが在籍していた当時を黎明期から過渡期だったと表現しましたが、その理由は簡単で当時は「素人(未経験者)でも所属できた」ことにあります。かくいう、ぼくも素人ながらもサッカー部に所属することが叶いました。

ちなみに初めて全国大会に出場したチームメンバーにもサッカー未経験からレギュラーを獲得した人もいたぐらいで、ぼくも在籍人数が少なかったっていう台所事情もあり、GKとしてレギュラーとなることができました。

いまの帝京長岡高校のプレーぶりを見ていると到底考えられることではありませんが、(表現に難しいものの)当時は未経験者でも入部できるだけの「余裕」というか「隙」があったことは間違いありません。

つまり、今ほどサッカーのスキル的にも、身体能力的にも優れている選手たちばかりではなかったのです。

ところが谷口先生は当時から、いや、就任当時から一貫して「このチームの目標は全国大会で勝つ(優勝する)こと」であり「全国大会で勝つ=最低でもベスト4まで残ること」であると言い続けてました。ピッチの内外で求める基準はベスト4に残ることができる「選手」であることと同時に「男」であることだと言われたことをよく覚えています。

いくらヘタクソであろうが「自分が求める基準は変わらないし、ブレるつもりもない」とハッキリ言われましたし、我々としてもレベルが圧倒的に不足していることは自分たちでも認識してはいましたので、非常に心苦しい。

ところが、谷口先生も通り一辺倒に高すぎる基準を求めるだけではありません。

在籍する選手の性格や状況などを踏まえた上で助言や叱責、指導を繰り返していましたし、それを実感する場面が多々あります。反面、我々はどうだったのかといえば、意識高くできる人間もいるにはいましたし、体現できる選手もいましたが、客観的に「無理でしょう」と現実を見ながらもサッカーに打ち込む人間もいたりと様々。

それはそれで当然でしょう。ぼくはどちらかというと未経験からの入部組なので「いやいや、それに値しないよ、自分は」と思っていた派です。

目標をブラさずにやり切ること

それなために、谷口先生の求める基準に達せれない選手は一人や二人ではありません。認識や見識が求める基準へ達していないことから、言葉や認識の誤解や齟齬が生じていたこともないとは言いません。

突き放してしまったがために貴重な戦力として考えていた選手が退部してしまったことも一度や二度ではないでしょう。そんな現場を在学中も卒業後も見てきましたし、そんな状況への対処にも頭を悩ませていたのだろうと思います。

それでも自身の定めた基準と目標から逆算し、何が必要なのかを現状把握し、今後の展望を含めて着実に動きを進めてきた事実と、その事実が成果として全国大会での結果となっている点には純粋に大人となってからも尊敬しています。

帝京長岡と同じグラウンドで練習をする長岡JYFCが立ち上がったのは、ぼくが高校2年生の頃です。立ち上がった20年が経過し、今ではクラブ出身者でJリーガーやFリーガーが多く誕生していますが、それも「地元で応援されるためには地元出身者が多くならないとダメ」という信念を基にした展望の一環。

県外出身で帝京長岡に入学してくる選手は、ぼくが学生当時からいるにはいましたが卒業後何年かして谷口先生に「声をかけているのですか」と聞いた際に「誘ったことはない。そんな時間ない。」と一蹴されたのを覚えてます。

また、ぼくが学生の当時ですが、冗談交じりに「地元の子どもたちが地元のチームでサッカーをして、地元の高校で活躍することが大事。その選択肢に"帝京長岡"が入ることが大事で、君たちは大事な役割を担ってるんだぞ」と話してくれてました。

ぼくたちがそれを担えたのかは自信がありませんが、少なからず同じグラウンドでサッカーをしていた少年たちが数年後には緑のユニフォームを着てくれている姿を見ると、非常に嬉しくて誇らしい気持ちになったものです。

それらを振り返ると、一貫して「全国で勝つ(優勝する)こと」という目標を達成するためのやるべきことを一つ一つ丁寧に実施してきたのだとわかります。

大人になってみてわかる"すごさ"

そんな風にして目標に向けて外からも協力者を集めつつ、自身が関わるプロジェクトを遂行し、一つずつ実現していく様子ってのは大人になってから考えてみると非常に凄みがあると実感しています。

しかも、ぼくが学生だった当時、谷口先生は20代。それを考えると同じ年齢の頃に自分が何をしていたのかを思い返すと言葉になりません。比べるものではないのかもしれませんが、比べると恥ずかしい気持ちにもなります。

資質として優れていたのだろうことは理解できますし、同じ境遇で同じことをできるのかと言われればまったくできる気もしません。なんというか広義(広い意味での)「指導者」という役割がピッタリとはまっているような人。そんな印象です。

部活動の思い出というと「しんどかった」とか「きつかった」といっ事柄で綴りそうなものですが、それでは帝京長岡高校サッカー部のOBとしては恥ずかしい気持ちになります。

別にぼくが何をしたわけでもありませんし、いまの帝京長岡の活躍があるのは学校もそうですし、地域もそうですが、何よりもスタッフが諦めずひたむきにサッカーや選手に向き合ってきた過程が反映されているわけです。

その過程の一端にいた立場として思い出を語るのであれば、その内容は「競技の指導者」ではなく「組織を統べる者としての指導者」像を抱くに至った谷口先生の姿だということになるんだろうな、というところがこれを書きました。

まぁ、あくまでもぼくの主観ですから他のOBがどんなことを思い出とするのかまではわかりませんが、少なくともぼくが抱く部活動の思い出ってのはこんなところです。

ではでは。

えんどう

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