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視点の自由研究No.87「視点_その仕事は誰かの犠牲で出来ていないだろうか」
ローカルと東京を行き来し、広告映像の仕事をしていて感じること。
その最も大きな差は予算です。
Noteを読んでいると本当に様々な方がいて、その仕事への奮闘やノウハウ、矜持など読むことができて大変面白く感じていますが、やはり大きな仕事というのは、それなりの重責とストレスが伴っているなとも感じています。
今回はそうした大きな予算帯のプロジェクトで感じていること、そしてそうした仕事を進めていく上で無くしてはいけないなと思っている気持ちを書いてみようと思います。
「エキストラ」
突然ですが、エキストラという言葉をご存知でしょうか?
映画やドラマなど主要な役の周りで、時にはお店のお客や店員、時には主役と相対する敵の軍勢、さらには街の通行人に至るいわば映像の端役と呼ばれる人たちです。
広告映像でももちろんエキストラの方に出演頂くことがあります。ローカルですと予算の少なさもあり、そうそう何十人ものエキストラに出演をお願いすることはありませんが、東京などの大きな仕事では当然ながら何十人レベルでのエキストラの方で撮影する機会があります。
そうしたエキストラの方達、撮影現場ではかなり厳しい環境で出演されているのは間違いありません。制作部でもある私としても大変に心苦しいのですが、十分なケアができない、手が回らないのが実情です。出演オファーも撮影日ギリギリのタイミングなど本当に大変なことを要求されている。さらには現場では演出の指示で様々に演技も行わなければならない。お願いしている身でありながら、その苦労には頭が下がる思いです。
そんな気持ちがあるので、現場演出部がエキストラをモノのように扱い、指示を出すのが大変に嫌です。もちろん演出部も限られた時間で出せるだけのクオリティを出さなければならないミッションがあり、撮影部、照明部などからの撮影時間のコントロールやクライアントへの見せ方、段取りなどの心理プレッシャーもあるのはわかった上で、それでも人をモノ扱いするのは間違っていると思うのです。
「その仕事は誰かの犠牲で出来ていないだろうか」
もう少し視点を広げてみましょう。大規模予算プロジェクトでは多くのスタッフが関わり仕事を進めていくのは、皆さん想像に難くないでしょう。当然ながらそれだけ多くの人が関わるだけで、摩擦が生じ他人を想いやる余裕がなくなっていくのも当たり前のように起きることでしょう。
さらにはスケジュールなど時間的猶予までなくなってくるとその摩擦係数は最大になり、誰もが自分の仕事を全うするだけでいっぱいになるのは普通です。AIが発達してきたとは言え、未だ仕事は人力によるところ、コミュニケーションで成り立っていることが多いのも実情だと思います。
こうした視点はローカルの仕事でスタッフがまるで家族のようになっている環境と比べると心理的に大きな枷だなと感じるのは間違いありません。ただ全てがローカルのようになればいいなとも思っていなくて、ほんの少しばかりの相手への思いやりで解決できることだとも考えているのです。
大きな仕事だからこそ、より多くの方にその恩恵を与えることができることも承知している上で、その仕事に関わる人の幸せを犠牲にすることで、ようやく成立できるというのは理解に苦しむのです。
大きな仕事の醍醐味もよくわかっているが故に、その仕事で犠牲になる人がいなくなるようにどう仕事を進めていくのか?そうしたことを心がけながら今日も仕事と向き合っています。
最後に自戒も込めて、先日スタッフの方から頂いた言葉で締めくくりたいと思います。
「エキストラさんを、望む映像を創るために必要な一人の人間としてきちんと扱ってください。彼らはモノじゃない。」
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