我輩はクズである。
我輩はクズである。名前はまだない。
まずはクズというものについて改めて考えてみたい。なぜなら我輩はクズだからである。
「おいクズ」と言われて「クズ?クズだと?クズってなんだ?」と答える事のできる人は素敵なクズである。(漫画好きに悪いやつイナイ)
一方、「おいクズ」と言われて「なんだコノヤロ!お前の方がクズだバーカ!」と答えることのできる人はただのクズである。(漫画読まないやつナンダロウナ)
そろそろ真面目に書いていこうと思う。
クズにも色々種類がある。
まずは二つに分けられる。
「自覚のないクズ」と「自覚のあるクズ」である。
先に言っておくが、クズは悪いことかどうかという点において、私は別にどっちでもないと思っている。だからクズという文字を見ただけで卒倒してしまう病気の人がいたとしても怒ったりしないでほしい。
まず自覚のないクズは、自分が正しいと思い込んでいる場合がある、と便宜上、言っておく。
私は物凄い量の人間をこの目で見てきたわけでもないし、人並み以上に洞察力があるわけでもないし、他人の心の中なんぞさっぱり分からない自己中なので、「正しい自分に酔っているクズ」が存在していたとしても、それを批判するつもりは毛頭ない。
さて、自覚のあるクズは一体なにかというと、某スーダラ節の「わかっちゃいるけどやめらんね!はいっ」というフレーズがお似合いのタイプのクズである。
この場合、自分が正しいかをそもそもどうでもいいと思っているか、自分が正しくないと思っているか、というのが「自覚のあるクズ」のポイントである。
たまにクズは、「自覚のないクズ」にもなる事があるので注意してほしい。自覚のないクズと自覚のあるクズを行ったり来たりする......「クズループパターン」と名付けよう。大抵のクズたちはクズループパターンを繰り返している。
「私は正しくない、クズだ」と思っている上で、それを悲観してしまうクズについては、楽観的になれとしか言いようがないが、卑屈なクズにとっての「クズ」という言葉はただの罵倒にしか映っていないのかもしれない。いや、罵倒として使われるのが普通だが、私は長年クズを営んでいるので、使われた時はともかくそれ以外(自称する時とか...あるじゃん、ほら、「あっどうもクズです!今夜はよろしく!」とか言わなきゃいけない時とか)に使う場合のクズという言葉に対して思うところがあるのだ。
クズとはそもそもゴミのことだ。
ゴミは捨てられるものである。
それを生み出すのは人間でしかない。だが、世界からゴミが無くなることは人類滅亡の時以外あり得ない。だからゴミがあるというのは空気があるということに近いほど当然なのだ。
自分がゴミだとしても、自分を捨てることは決してできない。なぜならゴミはゴミでも人間だからである。しかも生きている。そしてクズな自分が嫌だと思う場合、思っていながら自分嫌いじゃああと泣いてばかりいたらさすがに病むので、さっさとクズであることを辞めるか、クズの何が悪いと開き直るか、自覚のないクズになるか、クズの自分を楽しむか、そのどれかを選択したほうがまだ人生は楽しいと思う。
で、前向きに考えたとして、出来ればクズを辞めたいと考えるとする。
しかし私が思うにクズはどこまで行ってもクズである。
地頭がよく、努力の才能があり、人格的に周りの評判が良い人間は確かにいる。
そういうマトモなやつになりたい、とクズがもし憧れるとする。
この間、知り合いが「中国の故事に、「先ず隗から始めよ」という言葉がある。憧れた人がいるならその人のように、身近な出来ることからやっていくのがいい、っていう言葉なんだけど。憧れの人を見つけるのはだから、とてもいいことなんだよ」と言っていた。
しかし、残念ながらそのやり方ができる人は決してクズじゃない。クズじゃないから有益な努力ができて、ゆくゆくはマトモになれるのだ。(そもそもクズじゃない論。アンタはできる!がんばれ!)
治らないクズというのはとにかくアホである。
バカにつける薬はないとはよく言ったもので、どんなに頑張ろう!と手帳を開いて予定を作って計画を練っても、その通りもし実践できたとしてもだ、それは必ず後になって「徒労じゃった」とため息をつくことになる。
なぜか?
バカだからだ。
バカはその名の通り、頭が悪いのだ。やり方を間違える。間違えても気づかず、進む。時間を無益に過ごす。出た結果が殆ど無意味な方向性で出てたりする。
その繰り返しで、「バカなクズ」という自覚がきっと持てる。
もちろん、頭のいいクズもいるということは書いておく。頭のいいクズは上手く生きていることだろう。いいなあ。
ただ、バカでクズの場合は、意外と「自分って実はいい奴なんじゃ」と自己陶酔できる材料にもなり得るから喜んでいいと思う。
問題は、「バカは頭が良くならないし、クズだから徒労に向かってしか頑張れない」ということだ。
そろそろ打ち明けると、
ここまで書いてきたのは、お察しの通り私自身のことである。
根っからのクズなので、自分のことしか書けない。
私が1番治したいクズ加減をそろそろ正直に書いておこうと思う。共感を得られたら、嬉しいなあ。
「人に優しくできない」ということだ。
自分が、自分が、と言っている・思っている人はクズである。身も蓋もないが...。
だから、クズである人(優しくできない、コミュニケーションがうまくとれない、自信がない、自分は薄情だと嘆くような)で、優しくなりたい、と斉藤和義を想う人。
そういう人の気持ちしか本当のところはわからない。人を騙したり、それを悪びれることなく、お金たんまりウハウハな人の気持ちにはなれない。めっちゃ羨ましいからそういう人にこそどうやったらそんなクズになれるのか指南していただきたい。お金欲しい。
いやそんなことはいい...クソッジリ貧!
「優しくなりたいクズ」に向けて、自分も含めて......考えて行きたいし、考えている人の力に少しでもなれる言葉を紡ぎ出せたら、なんて欲深いことを考えています。
今度の記事では、「クズが優しくなれるのか」というところから書いていくつもりです。やれやれ、読んでくださりありがとうございました。また機会があれば是非、お会いしましょう...良いクズ日和をどうか大切にお過ごしください!