大卒フリーターが記者になるまで~前篇
■大学卒業後、職を1年おきに転々
2023年1月7日、木暮は和歌山県岩出市の喫茶店にいた。夜9時過ぎは客もまばらでノートパソコンを広げてコーヒー一杯粘っていても、囲いで仕切られているので、周囲の目も気にすることはない。こんな生活を一年続けている。降版時間は午後4時ごろ。朝刊にも関わらず、他紙より締切が異常に早い。理由は印刷局を定時で帰らせるためだ。締切までに取材をしながら校正のためのゲラ刷りをスマホでチェックしなければならない。降板時間を過ぎると、残った取材か、溜まった原稿を処理する。この日も全ての取材を終え、入店して4時間以上が経過していた。インターネットで、ここ最近の求人をすべて拾ってみる。しかし、運命の出会いのような話はないわけで、時間が過ぎていくだけだ。
求人チェックを諦めた私は、4年ぶりに転職サイトへログインしてみた。フリーワード検索欄に「記者 募集」と入力してみると、Y新聞社の求人が出てきた。詳細をクリックすると、締め切りが明日に迫っていたことに気づく。やばいと思い、書類選考にスクロールすると、「入社してやってみたいことを作文で提出すること」とあった。まだ書き残っている原稿があったため、間に合わないと判断し、あきらめることにした。検索結果のページに戻り、下にスクロールすると、今度は木暮が入社することになるP新聞社が出てきた。書類選考は、履歴書と職務経歴書のみ。面接は2回で筆記試験がない。これはまたとないチャンスと思い、さっそく応募した。
2月7日、一次面接はリモートで行われた。最初に人事部の担当者が現れ、次の部屋に進んで下さいと言われた。リモート画面の中に部屋があるとは驚きだ。部屋に入ると面接官が5人いた。全員、編集委員クラスの社員だという。簡単な自己紹介と志望動機、いまやっている仕事で印象に残ったことだけ聞かれた。志望動機を答えたとき、5人から笑いが起きた。「いまの会社は給料が少ないのね。君はおもしろいね」。
面接時間はわずか10分で終わる。これはダメだと落ち込んでいたが、3日後、最終面接の案内が届く。
2月23日、木暮は北へ向かった。
移動中の新幹線の中で、なぜ、そこまでして新聞記者にこだわるのか、と自問自答した。緊張を和らげるため、考えを巡らせた。
木暮のロールモデルは小学5年生の時に完成していた。
木暮は「筑紫哲也NEWS23」のファンだった。筑紫氏は朝日新聞政治部記者などを経て、テレビのニュース番組のアンカーに起用された。週刊誌の記事によるとスポンサーへの配慮を理由に上から報道のストップがかかったが、指示を無視して放送したニュースが数多くあったという。そんな裏話を知らずとも、筑紫氏の権力を監視する姿勢、少数派を恐れない、多様性を尊重したジャーナリズムに心酔した。
新聞記者になるために、学生時代は優等生を装った。中学では内申点を良くするために生徒会を務めたが、勉強が苦手で近所の県立高校入試に失敗。実家から一時間かけて私立の男子校まで、おんぼろ電車で通った。
高校二年生でも選択を誤った。あのとき理系コースを選んでいれば、滋賀の片田舎にある立命館大学の指定校推薦をもらえたはずだ。文系では上智大学の推薦もあったが、条件として英検二級が必須だった。英検に二度挑戦したが、勉強が苦手なので挑戦権を得られず、成城大学を目指した。しかし、下級コースの学生に権利を奪われ、専修大学商学部と東洋大学経営学部、日本大学国際環境学部だけが選択肢に残った。日大は三島にあるため、消去法で見送った。専大と東洋大はどちらも変わり映えしないので、進路指導の先生に選んでもらった。ここで真剣に大学選びをしていれば、就職活動では苦労しなかっただろう。
大学三年生になり、就活を始めた。中学時代の友人が近畿大学でマスコミ対策講座に入っていると聞いたので、私も大学内にあるマスコミ講座の面談を申し込んだ。元在京テレビ局のアナウンサーが面接官で、もう一人は沖縄のラジオ局の元アナウンサーと言っていた。「本気でマスコミに入りたければ全国各地の放送局や新聞社を受けなければならない。その覚悟はあるか」と問われた。そんな覚悟はなかったため、講座に入らず、自力で新聞社の入社試験に臨んだ。結果は全国紙が全滅。名古屋のテレビ制作会社も受けた。筆記試験と一次面接が通った。二次もあったか忘れたがエビフライが二つ入った豪華な弁当と東京までの交通費も支給された。最終面接の帰り際、面接官から「一人は、寂しいですか」と問われたので、「はい、寂しがり屋です」と答えた。テレビ業界はチームワークが大切と思い、そう答えた。後日、自宅にお祈り郵便が届いた。
酒で忘れるために、当時住んでいた川崎のマンションの向かい側にある惣菜店で買ったカニクリームコロッケをアテに焼酎を一升空けた。案の定、気持ち悪くなり、台所で嘔吐した。しかし、いくら吐いても何も出てこなかった。掃除しなくて済んだので助かった。マスコミにこだわらず、大手通信企業も受けたが結果は実らなかった。世間はリーマンショックの影響で就活も売り手市場から買い手市場に転換していった。
結局、就職先が見つからず、三重の実家に戻り、名古屋の郵便局でアルバイトをはじめた。顧客と会話をしていれば、少しはコミュニケーション能力が向上できると考え、受付業務として働いた。職場の人間関係の良好で休憩中も高齢の女性や主婦と仲良くなれた。みんな話しやすくて嫌みがなく、仕事で困ったときも率先して助けてくれた。給料はけっしてよくなかったが、職場に行くのは苦ではなかった。
バイトの傍ら、宣伝会議が主催するコピーライタ―養成講座に通った。講座の課題は毎週出た。上位十位以内の受講生には、金のエンピツがプレゼントされた。木暮は二度、受け取った。一つはカルピスのキャッチコピー。「そそぎ方一つでケンカのもと。それも楽しい」。そんなようなコピーを書いた気がする。キャッチコピーは、情景が浮かぶような言葉が評価されるらしい。一位の人は「好きな人につくる飲み物です」だったような気がする。もう一つは油性ペンのキャッチコピーで「書きあじなら、負けませんから」。アジの開きを大量に並べた中の一つにキャップの空いたペンを絵コンテに書いた。
カルピスのキャッチコピーを評価してくれた某大手広告代理店のコピーライタ―のもとに何度もキャッチコピー案を講評してもらったが、モチベーションが続かなかった。
名古屋で中小の広告代理店の面接を受けた。後日、二次面接の案内が届く。手紙にはこう記されていた。
たしかに、内定をもらうために自分を良く見せようとした。就職活動をしている世間知らずの若者であれば、当たり前の行為だ。結局、面接は通らなかった。
そのまま時が流れ、ある日時計職人の記事が目に留まった。スイスで時計職人になった青年の話だ。海外で夢を叶えている男の生き様に憧れと嫉妬心が芽生える。思いたったら吉日。まずは近場で時計修理の修行ができる場所を探した。
郵便局のアルバイトを辞め、名古屋の本山で時計修理屋に契約社員として入社した。はじめは店内商品を覚えながら、什器の整理や修理済の時計を梱包する作業をした。しかし、全く商品を覚えられない。結局、電池交換作業しかやらせてもらえず、クビになった。東日本大震災の約一カ月前のことだ。
(つづく)