『あかり。』 #33 ツェタンまで195km・相米慎二監督の思い出譚
東京から約200キロは…
静岡県藤枝市・越後湯沢・上諏訪あたりだそうだ。
ラサから約195キロのところにツェタン(沢当)がある。
ツェタンは、チベット文化全体の重要な発生地とされている。
そこにバスで行くことになった。
空港から乗った時のような、何とも頼りないマイクロバスが宿の前にやってきた。
いったんラサを離れれば、あとはぼこぼこの舗装道路に険しい山道ばかりである。
窓外に流れる荒涼とした風景は、どこまで行ってもあまり変わり映えすることがなく、ただ山と大地と空と雲。
実はすぐに見飽きてしまい、眠ってしまった。
日本の道とはまるで違うので、スピードも出さないガタゴトとした道行きであった。
あれは、どこだったのだろう。
川が流れていた。きれいな水だった。
そこのほとりで昼食になった。渡されたのは紙製のランチボックスで、蓋を開けると隙間だらけである。
鶏の腿肉を焼いたもの、ゆで卵、それにパンがひとかけら、ころんと入っていた。どれも乾いていて保存食みたいな弁当だった。
鶏肉は固かった。よく言えば身が締まっていた。その辺の鶏を絞めたような気がした。しかし、誰も文句は言わない。それしか食べるものがなければ、それを食べるだけだ。
固い鶏肉ときれいな川の水。それだけを覚えている。
またバスに乗って彼の地をひたすら目指す。バスはスピードが出ないから、のんびりとしたものだった。
ラサを出てから、何時間経ったのだろうか。ようやくツェタンに到着した。
といっても、具体的な何かがあるわけではなく、ただ町に着いただけだった。それから、また舗装されてない道を走り、やがて小さな村に着いた。
そこがチベット仏教発祥の寺がある村ということだったが、本当はどうなんだろう?
相米監督は、ここに来たかったようで興味深そうに村人たちを見ていた。
村人たちは観光客になれていたが、微笑みを返してくれる程度の距離感だった。それぞれの暮らしの仕事に忙しくしていた。
村の子供達があちこちを走り回っている。
大きな子は小さな子の面倒を見て、おんぶしたりしていて微笑ましい。
おむつなんてものはなくお尻のところは割れていて自然におしっこを漏らしたりできるようになっているのが斬新に思えた。
そんな村の様子を眺め眺め歩きつつ、小高い丘に登る。
この上に、その発祥の寺があるのだ。
山道を子供達が追いかけるようにまとわりつく。旅人に慣れているのか、人なっつこい子ばかりだ。
丘の中腹で、少女が自分を指差し『歌う』と言った。
監督がうなずくと、少女は澄んだ声でチベット民謡(だと思う)を歌い始めた。
これが本当に見事な歌声で、歌声が周囲に反響し、空に吸い込まれていく。感動的な歌だった。
監督も感心して聞いていた。
歌い終わると少女が、はにかんだような笑顔を見せた。
僕らは思わず拍手した。
そのまま別れようとすると、少女が手を出した。はじめは何かお菓子でも…と思ったが、そうではなかった。
少女はお金を要求していた。
僕たちが勝手に勘違いしていたのだ。少女が好意から旅人に歌を聞かせてくれたと。
少女は、旅人に歌を聞かせるプロの歌手だったのだ(!)
監督は、笑ってポケットから札を出して多めに渡してあげた。
少女がお礼を言った。
その後も少女は僕たちと一緒に丘を登った。
案内してくれてくれるつもりらしい。
少女は監督の手を引いてズンズンと険しい石ころだらけの道を登るのだった。
頂上に着くと、風が強かった。五色の小さな旗がバタバタと大量に棚引いている。
その中心に、小さな小屋があった。
そこが発祥の地であると、説明を受けた。
その拍子抜けするほどの小ささとしょぼさをどう考えるのか……だが、その時は何だか笑うしかなかった。
仮に小さな何かがここから始まったとして、今では、それがチベット全土に広がっているのだ。
小屋の中も本当に質素で、虚飾のかけらもない。御本尊もない。
ただ、小屋の周囲には強い風だけが吹いていたのだ。
下りの途中で、切り出したような岩の上に座って休憩をした。
眼下には村があり、その先にはツェタンの町が見え、遠くには険しいヒマラヤが見えた。
「なんだかシネスコで撮りたいですねえ」と、僕が言うと
「そうだな」と、監督が言った。
『アラビアのロレンス』みたいなスケールの映画を監督に撮ってほしかった。
世界で闘って欲しかった。
僕たちはゆっくり時間をかけて村に降りていった。
その晩もラサに出て、すっかり行きつけになった[酸辛粉]の店に行き、やたらといろいろ注文して腹一杯食べた。
もう、高山病はどこかにいってしまった。
僕たちはチベットに順応し始めていた。