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『TAR/ター』を男社会の目線で観る

中途半端な邦画を 2本観るくらいなら、精巧に作り込まれた洋画を 2回観るほうがいい。
『TAR/ター』はそう思わせてくれる 1本だった。

“女性” マエストロの話であるが、この映画を味わうためにクラシック音楽やオーケストラに明るい必要はない。本作の主題は別のところにある。
考えさせる映画なので、ネタバレという概念はない。
観た方も観ていない方も、一緒に考えてほしいと思う。


成功する女性は男性性を有するのか?

主人公の TARは、世界最高峰のオーケストラ、ベルリン・フィルの女性初の首席指揮者である。
彼女は華麗な経歴と功績をもち、成功者としての自信にあふれている。
また彼女は、女性のパートナーと暮らすレスビアンであり、養子にした幼女に対して父親(パパ)として接している。

オーケストラの指揮者という男性中心の世界で頂点に立った女性の物語。
かと思いきや、そんな単純なサクセスストーリーでないことはかなり序盤でわかる。
TARの振舞いに “男性性” としか言いようのないメンタリティをみるからだ。

いわゆる男社会において、女性が成功するためには男性化するしかないのか。あるいは、成功を収めた女性は自ずと男性化してしまうのか。
いや、もう少し根源的に考えるなら、そもそも男性性とは何か?である。

パターナリズムという言葉が浮かんだ。
父権的、温情的などと訳され、父親が子に対して示すような態度を指す。
要するに、自分より弱い者に対して干渉することである。愛情をもって保護する姿勢も含まれるし、力の差を前提に「私に任せておけばいいのだ」的な押しつけっぽいニュアンスもある。

男社会というのは、このパターナリズムが支配する社会なのだと思う。
弱い者に干渉して考えを押しつける者が上に立つ社会と言ってもいい。
TAR の男性性は、温情的なものなのか、それとも押しつけ的なものなのか。それをわからなくしているところに、この映画の上手さがある。

故意と過失のあいだ

セクハラとパワハラを同時に行うことを「セ・パ両リーグ制覇」と呼ぶらしい。

ニューヨークの名門音楽大学での TARの講義。
黒人でクィアの “男子”学生が「バッハは女好きの白人男性だから嫌いです」と発言し、それに対して TARは「バッハの音楽を性別や出生国や宗教やセクシュアリティを理由に貶めるのなら、君もそうなるよ」と諭す。
TARの言うことは正しい。音楽家としての矜持と、人の属性にとらわれない偏見のなさを感じる。
しかし、このシーンを観た者は、学生に対する講師のパワハラだと感じただろう。そういう印象をもたせるように演出されているのだ。
少なくとも、パターナリズムの両義性を感じとるに違いない。

もうひとつのエピソード。
TARは、シャロンという ”正妻” がいながら、愛弟子であるフランチェスカと “親密な関係” にある(ように見える)。
フランチェスカは TARに付き従うことによって、いつか副指揮者として引き上げてもらうことを期待しているようだ。彼女が TARに尽くしているのは、その下心ゆえか、それとも TARへの愛ゆえか。そこはわからない。
また、TARがフランチェスカの下心を利用しているのか、愛人として大切に思っているのかどうかもわからない。
現職の副指揮者を解雇したとき、TARはその後任にフランチェスカとは別の人物を選んだ。フランチェスカはこれを裏切りと感じ、TARに復讐し始めるのである。

さて、TARは何か間違ったことをしたのだろうか。
TARがフランチェスカに昇進を匂わせることによって、彼女を自分の思いどおりに私物化していた、と見えなくもない。一方、フランチェスカが勝手に見返りを期待していただけ、という見方も成り立つ。
つまり、ここでも TARの行動は白とも黒とも判別しがたいのだ。
故意にやっているのか。それとも、ただの過失や不作為にすぎないのか。

TARのパターナリズムは善なのか悪なのか。
パワハラやセクハラのグレイゾーンをこの映画は巧みに表現している。

ちなみに、正妻シャロンはベルリン・フィルの第1ヴァイオリン首席奏者、すなわちコンサートマスターである。
これをもって、TARが公私混同していると指摘するのは容易い。
一方、シャロンが実力でそのポジションに就いている可能性も否定できないのだ。

ついでに、奔放なロシア娘のチェロ奏者、オルガをソリストに抜擢した件も同様である。
オルガがチェリストとして才能豊かであるのはたしかだが、この粗野な若い娘を見る TARの態度は、お気に入りの新入社員を見る好色上司のそれであるかのように描かれている。

持たざる者たちの嫉妬は悪か

ほとんどの観客は、頂点に上りつめた TARがその傲慢さゆえにしっぺ返しを喰う話としてこの映画を鑑賞しただろう。
それを否定する気はまったくないが、私は違う解釈をした。
TARが何か悪いことをしましたか?という、作り手の挑戦的な笑みが見えるのだ。

もっとはっきり言えば、みなさん、このテの人物を悪者にしたがりますが、それってバイアスがかかっていませんか?という問いかけである。
成功者は弱い立場の者をいじめたり食い物にするなどと決めつけていませんか?と。

そして、この映画の主人公を男性ではなく、男性性をもつ女性にしたセンスを思う。
男性だったらほぼ 100%「セ・パ両リーグ制覇」の話に傾くところ、女性にしたことで両義性をもたせることに成功している。

結局、TARは SNS民の心無い誹謗中傷によって社会的に抹殺された。
ソーシャルメディアの馬鹿どもって残酷だね、とも感じるし、また別の考えも沸く。
この格差社会において、成功者を引きずり落とすことを可能にしたインターネットメディアは、持たざる者に与えられた唯一最後の武器なのだ。
嫉妬とは、人間のもつあらゆる感情のなかでも最も強力なものである。
これを抑えることはできないし、この救いのない世界にそれくらいの正義を許してもいいではないか。

私は、TARが悪い人だとは思えなかった。
TARを陥れた者たちを非難する気もない。
すべてを失った TARは、またどん底からたくましく這い上がるのだろう。
うつくしい。

こんな感想をもつ人は少ないだろう。でも、人によってはそんな感じ方もできるのが映画の良いところだと思う。
語りたくなるシーンは無数にあるが、敢えて論点を3つに絞ってみた次第。
パターナリズムと不作為の罪と嫉妬という正義である。


最後に蛇足ながら。
ケイト・ブランシェットはいい役者だ。
6年前 カンヌの審査委員長を務めた彼女は、『万引き家族』での安藤サクラの泣きの演技に対して、「もし今後私があの泣き方を演じたら、安藤サクラを真似たと思ってください」と、これ以上ない賛辞を贈った。
この慧眼と謙虚さよ。

今後、女優が男を演じたら、ケイト・ブランシェットを真似たと思うことにします。

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