日本の違和感と幸福感と
年に 1~2回、一時帰国するたびに「違和感」という名の発見がある。
今回感じたそれは、「今さらそれ言う?」といった類いのものだった。
ひとつは、あまりの広告の多さである。
まちを歩くとあらゆるスペースが広告で埋め尽くされている。
テレビをつけると CM ばかりやっている。
娯楽コンテンツであるはずのテレビ番組さえも商品の宣伝をしている。
何を今さら・・・と笑われるだろう。
たしかに、私たちがそういう世の中に生きているのは自明だし、ビジネスと経済中心の社会とはそんなものだ、と悟ってもいよう。
それにしても、である。
どいつもこいつも何かを売ろうと必死すぎないか?
とにかくモノが売れない、という常態は今に始まったことではない。
1990年代後半以降の一貫したトレンドだと言っていい。
そこでモノ消費をコト消費に言い換えてみたり、ポイントカードで囲い込みしたりと、マーケターらが涙ぐましい努力を重ねてきた。
それによって、基本的にモノが売れない社会はかろうじて延命しているように見える。
しかし、もうよくないか?と思えてくるのだ。
ふたつめの違和感も普通すぎて申し上げにくいのだが、異常なほどの野球熱である。
私は子供時代にテレビで巨人戦を観ていた世代だが、プロ野球がコンテンツとしての魅力を急速に失っていく過程ですっかり興味をなくした。
今でも野球を愛し贔屓のチームを応援する人たちがいることは理解できる。
しかし、国民的熱狂にまで盛り上がっている(らしい)現状には違和感しかない。
海外に住む者にとっては、WBC の感動も、タイガースの優勝も、遠い世界のニュースでしかないので、温度差があるのはしかたがない。
日本に住んでいたら私も熱狂していただろうか・・・
いや、しないだろうな。
大谷翔平フィーバー的現象も、メディアが無理やり盛り上げているだけで、日本国民の大半は案外冷ややかな目で見ているんじゃないか?
身も蓋もないことを言ってしまえば、大谷翔平がどれだけ活躍しようと日本国民の生活になんのプラスもない。
賃金が上がらずヒーヒー言ってる若者や中高年の方々は 1000億円とかいう契約金額に不条理を感じないのだろうか。
話題を変えよう。
12月31日は、働きすぎの日本といえども、まともなお店は休業している。
なので、まともでないお店を探して歩いたわけだ。
そしたらちゃんとあった。大晦日の夜に通常営業しているヤバげなお店が。
そこは、超大衆酒場とでも言おうか。「ホッピーあります」とか書いてそうな場末感満載の呑み処だ。
こんな店に入れる人なんて限られてるだろ。と思いきや、ほぼ満席である。
飲み物のメニューが、ビール、酒、焼酎、といった素朴さ。
「銘柄」という発想はないんだね。オットコマエじゃないか。
食いもんのメニューがまたいい。
「土方のモツ煮込」「男のハムカツ」「おっさん大好きポテサラ」・・・
ポリコレって何?と言わんばかりのシカトっぷりだ。
店内を俯瞰する。
まず目につくのは、どう見てもカタギでない一人客。
疲れきった中年サラリーマン二人組がチラホラ。
20代女性二人組なんてツワモノもいる。
私の向かいには 80過ぎに見えるおじいちゃん。冷奴を肴にコップ酒をのんでいる。
そして、私の隣には子供のような男の子がいた。
おいおい、年齢確認したのかよ(笑)
男の子が飲んでいるのはハイボールだろう。
男の子の隣には、ジャラジャラとヒカリモノを身に着けた年齢不詳の女性。男の子の母親とみた。
この母子は各自スマートフォンに集中していて、まったく会話がない。
やはりまともな店ではない。
でもなぜだろう。
フシギと幸福感に包まれている私がいる。
トイメンのおじいちゃんに倣い、私も常温のコップ酒をのみながらその感情の正体を探していた。
「多様性」という陳腐な言葉が浮かんだ。
たしかに、この小さな箱庭には老若男女がいる。
しかも、出自や境遇の異なる一見バラバラな個だ。
なのに、なぜかそこには一体感があるのだ。
会話もなく、目も合わせないのだが、きっと大晦日の夜に行き場のない人間が集まっている、そんな空気を共有しているのだろう。
お互いになんの接点もない。
棲む世界もまったく異なる。
しかし壁をつくらず、差別もしない。
雑多な人間が集まる場所で、私たちは共に新年がくるのを待っている。
必死にモノを売らなくていい。野球熱に踊らされることもない。
日本にはそんな場所もあると思い出した除夜のこと。