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マスコミよ。これがジャーナリズムだ

『Spotlight』(邦題『スポットライト 世紀のスクープ』)を観ました。
ボストンの地方紙の新聞記者たちがカトリック教会による児童への性的虐待を調査して記事を書くお話です。
2001年の実話をベースにした映画で、テーマがテーマだけに、エンタメ性は低い。ベタな脚色や過剰な演出がなく、淡々と話が進むところが私の好みに合いました。


アメリカ、マサチューセッツ州の州都ボストン。
大学で有名な古都であり、アイルランド系・イタリア系の移民が多い。
2001年、そんな町のローカルの新聞社に新しい編集局長が赴任した。

局長は着任早々、とある神父による児童虐待(過去事案)に関心をもち、その追跡調査をしてはどうか、と大ベテランのデスクに言う。
そのデスクが映画の主人公である。
さっそく彼は、チームメンバーである3人の記者に、過去に虐待を受けた被害者やその弁護士を取材するよう指示した。

調査チームの4人(左が主人公のデスク)

この町でカトリック教会を敵にまわすことの無謀さを知る地元の新聞社と、外から来た編集局長という構図でこの話は始まる。

12歳前後の子供たちに対する常習的な性的虐待。
加害者はカトリック教会の神父プリースト
ジャニー喜多川と統一教会を足して2を掛けたような問題である。

序盤、記者が元被害者にインタビューするシーンが生々しく描かれる。
被害者はすでに大人になっているが、彼らは深刻な心的外傷トラウマを抱えていた。そのことがごく自然な挙動から伝わってくる。

性的虐待は「魂の殺人」とも言われる。
それを受けた者は、肉体以上に心と精神を深く傷つけられる。羞恥心と罪悪感から、その体験を誰にも話すことができず、その恐怖と屈辱とショックを一生抱えることになる。相手が自分の尊敬する人(例えば神父)であったらなおさらである。
インタビューに同席した弁護士は言った。
「彼はまだ “ラッキー” なほうだ。まだ生きているstill aliveから」

調査チームは、取材を続けるなかで、恐れていた現実に直面する。
ボストンの町の人々は教会側の味方なのである。
カトリックを信仰する市井の人々は言うまでもなく、法曹界や学校関係者も、そして被害者たちの親さえも。

教会というのは、町のシンボルであるとともに、善良な市民の安息の場であり、貧困な家庭や孤独な人たちを救済する駆け込み寺である。
人々に善をもたらすものなら多少の悪には目を瞑る、というのが地域住民の総意なのだ。
神への信仰を生きる拠り所とする人にとって、神に仕え、共に祈り、信者を導く「神父」というのは神同然の存在であるらしい。

折しも 9.11の勃発で、今こそ教会を中心にアメリカ国民が一つにならなければならないときだ(教会のスキャンダルを暴露している場合ではない)、などと体制側の人間は言いだす。

ボストンの保守性と閉鎖性。事なかれ体質。
それに対して、正しい側right sideにいることにこだわったのは、よそ者たちoutsidersだった。
調査チームのひとりはポルトガル移民、局長はフロリダから来たユダヤ系、教会と戦う人道派弁護士はアルメニア人である。

調査チームの4人は、必ずしも一枚岩ではない。
ひとりは虐待の実態を調べていくうちに怒りが募り、今すぐ神父らの悪行を特ダネとしてスクープするべきだ、と主張する。
またひとりは、祖母が敬虔なカトリック信者であることで葛藤している。

一方、主人公のデスクはブレなかった。
性的虐待を繰り返した神父らを糾弾するよりも、それを黙認してきた枢機卿Cardinalと隠蔽した教会組織システムをこそ記事に書くべきだ、と。
「俺たちの使命はスクープで部数を稼ぐことではない。悪を元から絶つことだ」


チームはさらに時間をかけて裏をとり、全体像を明らかにした記事を完成させた。
映画はハッピーエンドで幕を閉じるのかと思いきや、そんな美談で終わることを許さなかった。

ついに記事を出す前日のことだ。
デスクは、9年前すでに神父らの性的虐待に関するリーク情報を得ていながら、それを記事にしなかった過去を告白したのである。
チームが沈黙するなか、局長が口を開いた。
「ひとこと言ってもいいかな。
忘れがちだが、私たちはいつも暗闇の中をつまずきながら歩いている。突然ライトが当たって初めて非難すべき対象が見える。着任する前のことについて私には語る資格がない。ただ君たちはじつにいい報道をした」

それまで彼らの行動を淡々と見てきた私も、このシーンにはこみあげてくるものがあった。

大人たちがみんなカッコイイのだ

それと、変人だが人道派の弁護士のことである。
彼は一度も笑わないが、"小さな依頼人"(虐待を受けた子供たち)と会うときにだけ「ハロ~!」と屈託なく話しかける。
この人、どこかで見た気がするな、と思った。たぶん『プラダを着た悪魔』でアン・ハサウェイに服を見立ててあげたナイジェルだと思う。

脇役なのに一番印象に残る

最後に蛇足ながら。
この映画を観て悔しかった思いを記しておきます。
それは、日本でこのレベルの映画は作れないだろうと思ったことです。
日本映画にはこんな練られた脚本は書けないし、こんな自然な演出もできない。そして何より、こんなタブーに切り込めないでしょう。

もうひとつ悔しいのは、日本のジャーナリズムがこのような「調査報道」(Investigative journalism) をしなくなっていること。
日本のマスコミがやっているのは、政府や警察などの発表をそのまま記事にするだけの「発表報道」です。
まともなメディアが地道な調査をやらなくなったから、代わりに「文春」がやっているのでしょうか?

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