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考えない方が理解が深まる?

企画編集部の西藤です。

最近、書店に行ったら、
素読についての本を見かけました。

新刊書です。
江戸時代には当たり前だった素読。
こんなものが現代人の関心を呼ぶようになったかと
やや新鮮に感じているところです。


素読とは何か?


通常、わたしたちは本を読むとき、
そこに何が記されているかを考えます。

これに対して、
素読は一切内容の理解には労力を割きません。
文字だけをひたすら朗読していくだけです。

内容を考えず文字だけを追いつづけることに
どんな意味があるのかと
疑問に思うかたもいるでしょう。

素読は自転車の乗り方に喩えることができます。

自転車に初めて乗るとき、
その理屈を考えるひとはほとんどいないでしょう。

とにかく乗ってペダルをこいでみて、
それで何度か転倒しているうちに
体のほうがバランス感覚を会得します。

素読の場合もテキストの難しい文句や
複雑な理屈を一切気にしません。


とにかく繰り返し、繰り返し読む。

素読を続けるとそのうちに
内容は理解できずとも
言葉や表現は頭に染み込んできます。

「門前の小僧習わぬ経を読む」です。

お経の深遠な意味は分からずとも、
毎日お坊さんの読経を聞いていれば、
そこで使われている言葉は
子供でも暗唱できるようになります。

このように言葉を先にインプットしてから
本文の内容に移る

詳細がすんなり頭に入ってきます。

自転車で喩えるなら、
安定した走行が可能になり、
周りの風景に目をやる余裕が生まれた感じです。

それまであやふやに覚えていたことが
友だちとのおしゃべりなどをきっかけに
きちんと理解できると、
暗記などよりも強く印象に残る。

そんな経験がみなさんにもあると思います。
それと同じです。何となくで構わないので、
予備知識を蓄えておく

その後の理解が進むのです。

本の中身の理解から入った場合


これがいきなり中身の理解から入ると
けっこうな確率で忘れます。

それというのも言葉や表現の記憶が
どうしても付け焼き刃になるからです。

言葉や表現といった記憶の手がかりを喪えば、
当然それに紐づく内容を
思い出すことはできなくなります。

こうしてひとから読書の中身が消えていくのです。


確かに素読は同じ箇所を何度も
繰り返し読む必要があるので
時間がかかりますが、
再現性が高く、理解度が深い。

みなさんが読書に求める成果は
すぐに忘れるたくさんの知識ではないはずです。

江戸時代の寺子屋などでは
素読はごく普通の習慣でした。

以前、温故知新について書きました。
新しきを発見するには古いものを調べてみる。

このような古さもまた
その価値を見直してみるといいかもしれません。

DNAパブリッシング株式会社
企画編集部 西藤 太郎

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