スナックバロン 最後の日
2022年4月24日。スナックバロン最後の日は、店主の植垣康博さん不在の中で迎えることになった。植垣さんは体調不良のため、既に入院していたのだ。
なじみの常連客であり、なんと10代のころから植垣さんを慕って店に来ていた(もちろん未成年当時はアルコール無しで店を楽しんでいたという)大学生のKくんを誘って静岡で合流し、店の前で待ち合わせ。まだ店は開いていない。今日は植垣さんに代わり、女性従業員が店を開けることになっているので、店の前で待たせてもらう。また一人、顔見知りの常連がやってくる。この人は東京で開催された集会「群青忌」で会ったことがある。群青忌は新右翼・民族派の重鎮であった野村秋介氏の追悼集会。植垣さんは毎年、参列していた。極左なのに右翼の集会?と違和感を覚える人は多いだろう。この顔の広さ、左右を弁別しない懐の広さが植垣さんの魅力でもある。
(ぼくの感覚でも、本来革命とはそういうものだ。イデオロギーやゼクトに固執して現状を変えたいという志を持つ者たちが分断されている状況下で革命など出来るわけがない。)
女性従業員、Aさんがやってきた。コロナ禍を経て久しぶりの再会に歓声が上がる。
この日は何人かの常連客が入れ代わり立ち代わりやってきた。皆、今日がバロン最後の日と知って駆けつけてきた人たちで、地元静岡の人もいれば僕のように県外から来た人もいる。
その中には植垣さんの長い友人でもあり、記録者でもある映像作家のMさんも東京から訪れていた。実は、体調を崩した植垣さんや子供のRくんのサポートは、Mさんが献身的に行ってくれていた。もしMさんが医者嫌いな植垣さんを説得して入院させ、体の動かない植垣さんに代わって身辺整理や連絡に飛び回ってくれていなければ、さらに状況は悪化していたかもしれない。
集まった客と従業員Aさんとで思い出話に花を咲かせ、夜は更けていった。この日は植垣さんの軽妙なトークやハーモニカの演奏や嬉しそうに歌う「坊がつる賛歌」はない。植垣さん自慢の手料理、モツと糸こんにゃくの煮物や松前漬けやペペロンチーノもない。レモン入りハイボールを作る、かっこよくシェイカーを振る姿もない。
でも、壁には植垣さんが描いた裸婦像、恋人だった大槻さんの絵が飾られている。山本直樹さんの漫画「レッド」も、弘前大学時代の盟友である安彦良和さんの単行本も、獄中で読んでいたという難しそうな物理学の本も、初恋の赤軍派女性兵士に似てるという峰不二子(ルパン三世の登場人物)のフィギアも、いつか僕がバロンで開催したライブのフライヤーも、棚に並んだボトルも、いつもと変わらずそこにあった。もう、植垣さんとの会話を楽しみにこのボトルのお酒を飲みに来る笑顔、笑顔、笑顔…は、二度と見ることが出来ない。
ああ、今日が最後なんだ、本当に。スナックバロンの最後に、バロン本人がいないことは何とも寂しいけれど、ま、世の中ままならぬことの方が多いと言うし、仕方がない。こうして最後に立ち会えたことを感謝しなければ、などと考えながらハイボールのグラスを傾けた。
一緒に来たKくんが、得意の指笛を披露してくれた。ワルシャワ労働歌とインターナショナル。言わずと知れた世界の革命家たちに愛され続けている曲だ。植垣さんは、店では必ずしも政治的だったわけではない。客から求められれば政治の話はするが、普段は酒の話、料理の話、息子さんの話に相好を崩していた。また懐かしい生まれ故郷の茶畑や青春を過ごした青森の風物の話だったり、少年期に心を踊らせた地学や物理や化学の話だったり。
植垣さんは今でも共産主義者として、革命家として、バリバリの現役だったと思う。決して転向者でもなければ過去の武勇伝にしがみついて説教を垂れる口舌の徒ではないし、浮世に疲れきった隠居老人でもない。
そして一時として自らが関与した赤軍派のM作戦や連合赤軍事件のことを忘れてはいなかったと思う。ことに、自ら同志に手をかけてしまったことへの深い悔恨は、常に植垣さんを苛んでいたのではないか、僕にはそう見えた。
表向き飄々と生きているように見えた植垣さんだけど、それは社会の荒波の中を一市民として、一父親として、責任を背負って泳いでいくための方便だったのかもしれない。社会の中で合法公然に市民として生きていく植垣さんの姿を「軽い」と見て批判する人は左右問わず多かった。事件への反省なくマスコミに露出して目立とうとしている、と。
植垣さんが元気だったころ、バロン店内でこんな事件があった。
遠方から飲みにきたというある客がしたたかに酔い、植垣さんに絡みはじめたのだ。
そして植垣さんを批判する人の常套句
「人を殺したくせに反省の色が見えない」
執拗に絡む客に、植垣さんは珍しく声を荒げた。
「じゃあ、あんたは僕にどうして欲しいんだい。死ねばいいのか?店の奥(厨房)に包丁があるから持ってこようか?それで僕を刺しなよ」
聞いた話では、過去に実際に包丁を持ってきたカウンターに置いたこともあったというから僕は緊張した。酒が入って興奮した客、その前に刃物が置かれたとき、何をするかわからないと思った方がいい。どうやって止めに入るか考えているうちに
「もういいよ!話が通じないんだからおれは知らないよ、お代はいらないから勝手に飲んでて」
と植垣さんは従業員Aさんが止めるのも聞かず店を出て行ってしまった。
結局、その客は代金を置かずに帰ってしまい、僕とその日も店にいたKくんとで三人分のお金をAさんに預けて帰ったのだ。人殺し、責任をとれと声高に詰る人が料金を踏み倒し、その場にいた諍いに関わってない者に金を払わせてあとは知らんぷりなのだから笑ってしまう。発言が立派な人ほど行動が伴っていないのはよくあることだけど。
後日、植垣さんから「あの日は悪かったね」とお詫びされたが、植垣さんが謝ることでもない。やはり、あの客から謝罪や代金支払いの申し出は無かったそうだ。
僕には、決して植垣さんが批判者が言うように殺しを正当化しているとか道義的責任を放棄している、とは見えなかった。むしろ逆だ。植垣さんは事件に向き合って内面化した総括をきちんと世に伝えたのだ。それが植垣さんの総括の実践だった。
植垣さんはたしかにお酒も会話も好きな社交的で外向的な人だし、極めて頑健でタフな人だったが、ここ数年は疲れている様子が顕著だった。スナックバロンには定休日はなく、植垣さんの体調や気分や用事(東京や静岡市内で開かれる会合、集会など)によって不定期に休んでいたけれど、遠方から植垣さんに会いたいとやって来たお客さんがいれば電話一本で店に出てくる。だから植垣さんには休肝日もゆっくり寝るだけの日も息子さんと水入らずの時間を過ごす日も、本の続編を書く時間も乏しかった。
コロナ前から僕もKくんも植垣さんの体調を心配して、スナックバロンに定休日を設けてその日だけは誰が来ようと出てこないようにしたら、ゆっくり原稿を書く時間も必要でしょうと提案していた。植垣さんもそうしようかな、と言ってはいた。そのうち、どうやらバロンに週一回の定休日が出来たらしいという噂は耳にした。僕はちょっと安心したのだけれど…。
まるで自分に鞭打つように働き、証言していた植垣さんは2021年夏に一度倒れ、以来歩行や視力に問題が生じていたという。コロナ禍でバロンを訪れることのなかった僕は全く気づくことが出来なかった。
年が明けて2022年は連合赤軍事件、あさま山荘事件から50周年を迎える節目の年だった。数少ない事件当事者の語り部である植垣さんには、当然のごとく取材が殺到する。連日の取材攻勢に植垣さんは珍しく疲れきっていたとある知り合いは語っていた。
ところで、取材を受けたところで生活の足しになるほどのギャラが入るわけではなく、店の営業もその間は出来ないので、植垣さんとしては経済的なメリットはない。そのことは植垣さんに聞いた事がある。どんなに有名なジャーナリストや芸能人がインタビューに来ようとも、店にとっては広報効果以上の実利は無かったと。
「せめてスタッフみんなで一杯でも飲んでいってくれたらいいのに」
とバロン店主はぼやていたが、取材する側としては仕事で来ている身、勤務中に飲酒するわけにもいかなかったのだろう。
植垣さんはただ自分が事件のことを語らなければ、という使命感だけで取材を受けていたと思う。それは先に書いたように「目立ちすぎ」「殺人犯のくせに有名人気取り」という批判も招くし、息子さんの学校生活にも影響したという。植垣さんほど器用でバイタリティにあふれた人ならひっそりと過去を隠し、不自由しない程度に働きながら暮らすことも難しくは無かったはずだ。それでも、植垣さんは語り部として生きる道を選び、それを貫いた。
2022年2月、すっかり痩せた植垣さんが、倒れたときの後遺症なのかおぼつかない口調で語る様子はYouTubeにも上がっている。ぼくには最後まで責任を果たそうとする革命家の鬼気迫る姿に見えてならない。
そうこうしているうちに、植垣さんの健康状態がいよいよ深刻なレベルで悪いのでは、連絡がつかない、という話が在京の支援者や友人の間から出てきた。
僕も久しぶりに静岡に行き様子をうかがうと、歩行や視力に支障が出ている様子で、事態は深刻だとわかった。そうして先に述べたようにMさんによる説得、入院、という流れになった。
もちろん友人たちは植垣さんの回復を待ってのバロンの継続を望んだ。それは、バロンが連合赤軍事件のことを知ろうとする人の貴重な窓口になっていたし、何より植垣さんの生き甲斐でもあったと信じるからだ。金銭面でも支援出来ないかと模索したけれど、前回投稿文の張り紙のように、植垣さん本人が店の継続は不可能と判断したようだ。
この時点で僕は入院中の植垣さんの容態は、詳しくは知らなかった。とても面会可能な状況ではなかった。ただ、植垣さんの生命力で元のバロンのように回復してほしいと願うばかりだった。植垣さんならきっとしぶとく社会復帰するに違いないと信じたい気持ちもあった。あの過酷な山岳ベースの地獄も総括要求も生き抜き、真冬の妙義山を踏破し、27年の獄中生活を経て社会に甦ってきた生命力の持ち主なのだから。
命をかけて証言に身を捧げた植垣さんの全てが、このスナックバロンという空間に充満していた。
その最後の夜に響く指笛のインターナショナルは、植垣さんへの労いと店への惜別と、このお店を愛した人々への感謝を湛えたメロディだった。バロンに相応しい別れの曲だ。
その演奏は動画に撮影してあるから、いずれyoutubeに上げようかと思っている。
Aさんには、Kくんからポケモンのぬいぐるみが贈呈された。
フシギバナというポケモン。
「なんでまたポケモンのぬいぐるみを…」
と訝しむ僕に、
「本当は花束を、と思ったんですけど、花屋さんがどこも空いてなくて。それで花束代わりのフシギバナを買ってきました」
とKくん。
「それに、フシギな酒場ですからね」
不思議な酒場の最後の日、フシギバナはカウンターにちょこんと飾られて店の最後を見届けようとしていた。
インターナショナルの演奏とフシギバナとカメラマンと常連客。不思議な酒場スナックバロンの最後を、素敵な連中がちゃんと締め括ってくれた。
バロン店主本人は病気と闘っていてこの場にいないけど、なんともバロンらしい最後の日になったじゃないか…。
名残惜しいけれど、もう夜明けだ。
ありがとう、スナックバロン。
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