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「亀戸お遊び組」を読んだよ、という話

さようなら、クズです。

黒歴史晒し隊のルーツ大先生が執筆の「亀戸お遊び組 ~古参ゲーム実況者の交友録~」が発売されました。とても嬉しいですね。
私はまだ紙で手に入れられておらず、電子で購入して読みました。とりあえず号泣だけしました。ノルマクリアです。

私が亀戸組の面々を認識した時点では、すでにゆとり組の動画は削除されていました。ゆえ、「私は再アップの動画を隅々までみることで栄養を得ていたにわかである」という自意識で彼らのことを眺めていたのですが、腐り果てていた私の学生時代は思った以上に彼らによって救われていた様です。彼らの青春をルーツ大先生の漫画という形で摂取し、すぐさま泣きました。自己の認識って、あんまり当てにならないもんですね。

「ゲーム実況」を現在進行形で楽しんでいる人には、歴史的資料としておすすめできる漫画です。言わずもがな、亀戸組を愛している人は必読だと思います。何か大きな感情があるなら、今とりあえず買って、近い将来に読んでください。私は亀戸組の彼らを敬愛してしまっているので、「日常漫画」としての面白さの評価は訊かないで下さい。バイアスがかかりすぎる。とりあえず私は終始ニッコニコで、最後はニッコニコに涙を加えた感じでした。

漫画が売れることによってルーツ大先生の懐が温まったり、お遊び組の連載が継続したり、その他さまざまな幸せが宇宙に満ちると思われるので、善人の皆様におかれましては、とりあえず買われると良いと思われます。悪人の皆様はその辺りでひっそりののたれ死んでもらえるとSDGs的に良いかもしれません。短期的には死ななくても良いんじゃないかな、という意味です。

亀戸組を取り巻く話は、私が特に敬愛するたろちん先生がNoteにまとめて下さっているので、そちらをご覧いただけると楽しいと思います。

以下、自分語り

改めてゲーム実況を見始めた時期を考えると、中学に入ってすぐくらいだったでしょうか。当時は周りを「つまんねぇ〜」と見下す嫌な子どもで、「上辺の会話聞くたくねぇ〜」「面白い人の喋り聴きてぇ〜」とずっと思っていました。今もなお割と同じ様なことを思っているので、嫌な子どもから嫌な大人にジョブチェンジしたと言える訳ですが、当時は今より余程心が強かったので、「お前マジでつまんねぇ〜」という態度で堂々と生きていたと記憶しております。主に教員に対して。芸人さんのエピソードなんかを聴いていると、そこからラジオにハマった人が多い様な気がしますね。私の場合、これがゲーム実況でした。

そもそもゲームが好きで好きでたまらない私にとって、ゲーム実況動画は「面白い人が面白いことを話しながら面白いゲームを遊んでいる」という美味しいもの混ぜたら美味しいものができちゃったコンテンツです。特に亀戸組面々の喋りはシラフだろうが泥酔してようが面白く、彼らを心底尊敬していた記憶があります。もちろん、今も尚。というより、日に日に尊敬が強まっている気配があります。特に永久師範代は「次にこの人はこんなことを話すだろうな」みたいな予測が効かない面白さがあり、私が生まれる随分前のゲームをしている動画でも、中高生当時ずっと楽しんでいました(言わずもがな今も見直します)。

この「実況動画が好きである」という話を、趣味なんかを聞かれた文脈で答えることがたびたびあるのですが、この時ゲーム実況を知る相手だったならば「誰を見てるの?」なんていう話になります。これは至って普通の流れなものの、私はずっとたろちんさん、イボーンさん、はるしげさんの配信や過去の実況動画をニコニコと眺めてる現状で、いまだかつて彼らを知っているという人に出会えたことがない訳です。現状でなくとも、ゆとり組を中心に亀戸組メンバーの実況動画を漁っていた時も、塩さん辺りでさえ知っている人はいませんでした。

これはなかなか恐ろしい話で、殊、私の思春期は「ゲームを楽しむ」「ゲーム実況を楽しむ」でおおよそ構成されていたため、ここで会話のできない人とのコミュニケーションが非常に困難でした。私自身、「ゲーム実況知らねぇんだコイツ」と相手を認識しており、積極的に関わろうとすることも少なく(無駄だろうと思っていた)、人間としての一応の輪郭を保つために同級生と必要最低限に話しながら生きておりました。「どうせこの関係も長期化しないだろう」という認識だったので(そしてそれは正解でした)、嘘を吐きまくりテキトーに相互作用してました。

つまり、私は、いわゆる「青春」としてステレオタイプに描かれる経験の一切を破棄して中高生を生きました。今思うと、ゆとり組の動画を中心に、彼らが面白いことをしている様を観測して、勝手に青春した気になっていたんだろうなあ。当時は全然辛くなかったし。社会人になって「友達が欲しい」だなんて思い始めました。夢から覚めたのか、それとも、他人の青春を観測する頻度が減ったのか。

思いがけない話で、「お遊び組」はこの辺りの自意識を整理するきっかけにもなりました。擬似的な青春を享受する上で、他人の人生に自分の体重をかけていたと思えば、なんとも情けない話に聞こえてくるものの、ではその分、私が何も為さなかったのか、と言えば多分そうではなく。実体験としての青春を生贄にしたものの、得られたものは別にあると考えれば、擬似青春の様な「人生の一部を外部委託する」という生存戦略をありなのかも知れないな、と感じた次第であります。


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