アリストテレス第1巻10巻
2年以上、アリストテレスの倫理学を学び続けている。言葉の定義が一番難しいのがギリシャ哲学なのだけれど、仕方がない。
今回は、幸福(エウダイモーン)、幸福な人とはという章だった。
観想(テオリア)と実践できるものが幸せだということ、そして、幸福な生き方に見合った死に方があるという。しかし、偶然性が排除できず、愛するものを亡くしたり、とても強烈な事象に襲われた人は、その限りではないという。
そこで、私は、自分自身の経験から、一番近い「観想」で思い浮かべられたものが、新生児だった。 ただし、新生児には、環境を選択することはできず、捨てられたら死ぬ。
アリストテレスは、子どもは幸福な者ではない、と考えていた。
それは、可能態でありながら、その能力を存分に開花するだけの知恵と実践力がないからだというのが理由だ。
しかし、発達心理学的に考えれば、その成長に応じた幸せが常に起きていると考えてみれば、子どもこそ、その幸福な者なのではないかと感じた。
しかし、アリストテレスの政治論からすると、「幸福な者」ではないという。それは、政治をすることがでいないからとなる。
政治をするものだけが幸福な者ではないと思うが、アリストテレスは政治に参加することが、市民としてまた幸福な者としての第1条件のようだ。
また、幸福な者の死するとき、誰もがそれに見合った死を迎えることができるのか?という疑問の中で、スティーブ・ジョブス氏の最期の言葉を思い出した。
スティーブ・ジョブス氏はそもそも、成功者ではあったけれど、その功績の中で、人々に祝福され、愛されていたが、幸福感を味わっていなかったと書いてある。
それは、家族との時間や自分自身を粗末に扱ってきたと後悔したという話だ。
病院の手術室に入るとき、人生でまだ読んでいなかった本は「健康になるには」だと書いてあった。
何ができるかできないかではなく、最後まで自分の力で歩けることこそが
幸せだということは、仏陀も同じように言っていた
「丈夫な身体は宝」
そして愛する家族のため、友人のため、そして、自分自身のために、健康こそが、幸福な者の証なのではないだろうか。
しかし健康で野蛮な人間は困る。
健康と倫理の関係を考えるのも面白いかもしれない。
私の、感覚的答えとして、胎児から新生児、新生児から児童になるまでの間、私たちが外の世界を観る(外観)ように、大人になった私たちは、自分自身を内観することができるように、発達することが、シュタイナーや、アリス・ベイリーが云っていた、意識の成長という段階なのではないかと、理解するに至った。
人間は、体があるから人間なのだ。それは、同じ宇宙意識が、別個体の体験によって、多くの学習をするディープラーニングを行っているとも考えられる。
私が知っている、ゼロ・ポイント・フィールドは、目も口も耳もないカオスであり、大日如来や光そのものでもあり、谷崎潤一郎の「痴人の愛」で感じたような慈悲慈愛
33年も経っているのに、まだ言語化ができない。。。
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