『量子力学の奥深くに隠されているもの:コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』
ショーン・キャロル『量子力学の奥深くに隠されているもの: コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』を読みました。
いわゆる多世界解釈ガチ勢によるアツい多世界解釈プレゼン本だなという印象はおおよそ間違ってなかったのですが、微視的な世界で起きていることは私たちの巨視的な視点で捉えているものとは違うよというのは量子力学も伝えていることですのでもう少し細かくこの本をご紹介しようと思います。
本の構成
この手の一般向けの物理学入門書は往々にしてニュートン、場合によってはアリストテレスまで遡る物理学の歴史の解説に冒頭のかなりの紙面を割いてくれるものです。そのくらい私達が物理学に慣れ親しんでいないということを理解してくれているからだと思うのですが「どうもお手数かけてすみませんね…」という気分になります。
この本に関して言えば量子力学以前の物理学についてはあまり触れず、ちょっと色んな枝葉を落としてシンプルに物事を見てみようよと巧みに読者を誘いながら、「波動関数はシュレーディンガー方程式に沿って発展する」という一点で展開する多世界理論の解説に入っていきます。
多世界理論はものすごくざっくり言うとAとBという二つの状態が重ね合わせになっている状態(量子状態)を観測すると、AかBどちらかの状態に収束するのではなくAとBに世界が分岐するという説です。
その多世界理論とはどういうロジックで、現実の有り様について何を言っているのか、という説明を色んな角度から説明して、正直なところ私は確率のあたりで挫折しそうになったんですが、そんな折に第8章でいきなり小説風の対話劇が始まって、ともに物理学者の父娘がバーで酒を片手に多世界理論について語り合います。
父親で素粒子物理学の世界で名を馳せているボブが、父と同じ分野を研究しつつ量子力学が語ることの本質を求めて多世界理論の専門家になった娘のアリスに対して多世界解釈に関する質問を投げかける形で進んでいくこの章ですが、親父がかなり多世界解釈に対して斜に構えていてこういうシーンが実際に物理学界隈ではあったんだろうなとほのぼのします。ここで前章までの説明をかなりわかりやすくまとめてくれているので、忙しい人はここを読むだけでさわりは理解できる親切な設計です。
その後の章では量子重力理論へのアプローチなど未だに解決されていない物理学の問題も取り上げて、最近の物理学界の状況も紹介し、多世界理論に軸足を置いたトータルな解説書という様相になっています。
多世界理論こそ、量子力学を理解する一番シンプルで有力なアプローチであるという信念がそこかしこに見受けられるので、さぞ多世界理論が量子力学界を席巻しているのではと思うんですが実際のところはどうなんでしょうね。前述のアリスのこの言葉を信じてみたくなります。
想像する必要のあるものは全部、この現実の中に収まっていて、私たちはそのうちの観察された一部を記述しているだけ。
多世界理論FAQ
私はどちらかと言うと多世界理論を面白おかしい方向で空想の種にしていたクチなので、以下のような多世界理論FAQに真摯に回答してくれていてとても勉強になりました。(かなりざっくりした理解だと思いますが)
Q:世界が分岐しているようにはとても感じられない。分岐した世界の枝同士が干渉できないなら世界の分岐は検証不可能では。
A:君は天ではなく地球が回っていると真に”感じて”いるのか。
多世界理論は「波動関数はシュレーディンガー方程式にしたがって時間発展する」ということしか言っておらず分岐というのもある種の方便。波動関数の時間発展を分岐というモデルで見るとしっくりくるという話。検証不可能性についてはそのとおりだけど、他の理論にも検証不可能な予言はあるし、検証できないとしても世界が分岐しないと考える合理的な理由はない。
Q:自分の選択によってどんどん世界が分岐していくの?
A:分岐は人間の精神的な働きとは無関係だけど強いて言うならむしろ世界が分岐した結果として私達の選択がある。
Q:どこかの世界に不幸だったり幸せだったりする自分がいるの?
A:分岐した世界の自分は厳密に自分と一緒ではないと考えるべき。双子だってもとを辿れば一つの受精卵だけど別人でしょ。
Q:本当にあらゆる可能性の世界があり、物理法則に反する世界もあるの?
A:「あらゆる可能なことが起きる」わけではない。多世界理論は波動関数がシュレーディンガー方程式にそって時間発展することを仮定する理論なので、シュレーディンガー方程式が導かないことは起こらない。世界の枝には行きつく確率が高い順に重みがつけられている。重みが小さい、行きつく確率が低い世界のことについてはあまり生活に関わってこないので考えなくていい。
Q:自分がどんどん分岐していくと人格はどうなるの?
A:量子力学と物理的に語れない自己同一性の話を混同してはいけない。
Q:どんどん世界が分岐していったらいつか空間がいっぱいになるのでは
A:分岐によって新しく宇宙ができるわけではなく、宇宙の中がどんどん分裂していく感じ。新たに増えるというよりもともとあったものが見えるようになる感覚と言うべきかも。
感想
量子力学の研究者、こと多世界理論者はSF的なアレンジや哲学方面からのアプローチで先入観や誤解にまみれた量子力学と多世界理論を内心苦々しく思っているのではないかと想像するのですが、筆者はそういう誤解や疑問にできるだけ正確にわかりやすく、あくまでも物理学の領域から説明をする……つまり物理学が説明できることを明らかにし、説明できないことに予断をせず言葉を尽くしています。
その姿勢は驚くほど真摯で、読みながら「この人は本当に辛抱強いなぁ」と本筋とそれた感想を抱きつつ読みました。
カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』で、時間は人間の認識が大雑把すぎてエントロピーの増大を時間が過ぎているようにしか感じられないために存在が信じられている、と語られていたように、量子力学の話を聞いているとどこまで行っても人間の認知能力の限界を感じます。
量子力学は私たちが見ているものと現実が異なっていることを明らかにしている点で相対性理論までの物理学と一線を画すとキャロルは語っていますが、私たちの見ているものは私達の感覚に落とし込むためにかなりデフォルメされた現実なのだということに途方もない気持ちになります。でもその途方もなさを知るのがまた楽しいですね。