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義母さん、これだけは言っておきますよ!

義両親との同居生活も、30年近くとなると、義両親のことに関しては、大抵のことは流せる。

その人たちの、習性なり性格なりも分かってくるし。

ま、お互いさまといったところだろうか。

だけども、どうしても、昔からの義母の習性で、一時的に感情が高ぶるのを抑えられないことがある。

感情の折れ線グラフがあるとすれば、イライラのピークを越えるとも言っていい。

それも、毎回のことなので、なるべく、そっとその場を離れて、冷静を保つようにはしているけれど、そう何度となしに、その場を離れるわけにもいかないときもあるので、その時は「あ゛~またはじまったよ」と平穏に保とうとしつつ、心の中は穏やかではない。

殺気立つ自分に、未熟さを感じたりする。

いろいろ乗り越えて来てはいるけれど、まだ『悟りを開く』には至らないのを思い知らされる。


ついこの間もはじまった。

買い出しから帰ってきて、さぁ夕ご飯!ってなときに、奥に居た義母がおもむろに出てきて、ホウキで台所を掃きだした。

帰ってきて、ものの3分もしないうちに出てくる。
ホッとする時間もない。


なにやらブツブツいうものも、いつもと一緒。


放っておけばいいわ・・・と、なんとか気持ちを静めたフリして、買ってきた惣菜をもって足早にハナレの部屋へ向かった。

その後、お風呂に入りながらも、私のもやもやは消えない。

義母が私たちが仕事から帰ってきたとき、出先から戻ってきたとき、休日のゆっくりしたいタイミングで、ホウキを持ち出すのは、簡単にいえばアピール。

夫もそう言っている。

わざわざ私たちがゆっくりしたいタイミングで、そういうことをしなくてもよいのに、それまで部屋でくつろいでいることを後ろめたいと感じるのか、わざわざ表へ出てくる。

農作業の第一線から退いた今、自分もやるべきことは、やっている。


それが言いたいのだと思う。

ホウキをもつ以外にも、傍で、ゴソゴソ掃除をはじめたりするのも、私たちが、ゆっくりしたいタイミング。

「日中存分に時間があるのだから、自分たちが仕事をしているあいだに、そういうことはしてくれ!」と、夫にもくべられる(言われる)。


私は、義母が常にアピールするのは、義母自身が、過去に幾度となしに私たちが、一日でも農作業を休もうならば、露骨に嫌な態度をとってきた、後ろめたさからきていると踏んでいる。

義母のなかでは、365日一日も休まず畑へ行くべき価値観が埋め込まれていた。

じっと休むことは「悪」だと、信じて疑わなかった。

あと、私が肌で感じてきたことは、この家では、家事をする人間よりも、農作業をする人間の方が重宝されるということ。

それも、義母の態度から感じ取ってきた。

だけど、今では年をとって身体はそこまで動かない。

そこで、自分を許してあげれば、周囲の人へも優しくできるのに、過去、周囲の人へ押し付けてきたプライドもあって、なかなか許せない。

ホウキで掃きだすのは、取り繕うのに、手っ取り早いから。


私は、そう思っている。


一方、私からすると、義母のそういった習性も分かっているのに、イライラが止まらない理由。

若かりし頃の、完璧主義なところが残っていて、義母がホウキをもち始めると、自分がふだん手の届かないところをされることが、責められている気がする。

ちなみに、うちは昔ながらの平屋建ての家で、台所は土間となっており、母屋のリビングへは靴を脱いで上がることになる。
本来ならば、ホウキで掃くべき、コンクリート詰めのところが、玄関含めたくさんある。
夫も時々、ホウキで掃いてくれている。

あと、私が声を大にして反抗してからはなくなったけど、若い頃はすぐ隣りで、義母がゴソゴソ動き出すことが多かった。

私が水回りを触っていると、隣りのガスコンロを掃除しだしたり、私が料理していると、隣りの水回りを掃除しだしたり、トイレ掃除をしようものなら、出入り口のコンクリートの廊下へ新聞紙を敷いてみたり、普段しないのに、私が倉庫で仕事をしているときに、目の前で草むしりをしたりする。

私がおもむろに嫌な表情をしていると分かると、拍車がかかったように感じた思い出があるのは、私の未熟さからくる勘違いだったのか、思い込みだったのか。

だから、なるべく表情に出さないように気を付けていた。

だけど、嬉しくないことを傍でするのが「義母」という、固定観念がどうしても外れないから、イライラする。

あと、自分がゆっくりしたいと思う、自分に余裕がないタイミングで、必ずそれをやり始めるから、感情のコントロールのキャパも超える。


私にとって、ホウキで掃いて掃除することは、二の次三の次の家事だ。


と、お風呂の中で、無意識に内省していて、そうだ!と気付いた。


お風呂からでた私は、義父が居て少し躊躇したが、夫も揃っているところで、言った。


義母さん、いつもホウキで掃いてくれてはいるけれど、私にとって、ホウキで掃くことは、二の次、三の次やと思ってるからよ。

私は、お風呂の水の入れ替えから、ゴミ捨てから、その他の家事もしているし、何十年となしに、家事と仕事と育児を両立させるために頑張ってきたんやし。

手のあいた人がホウキで掃いてくれたら、それでいいと思ってるから。

本当は、義母さんにしてもらいたいことがあるけれど、出来ないのなら仕方がないでしょう。それも含めて私の仕事だと思っていますから。

出来ないことをするのは、お互い様でしょう。

1回だけ、言うとくからよ。


自身を鼓舞しながらも、それでも穏やかな口調を心がけて、そこまで言い終わると、夫がアシストしてくた。

やってくれるんだったら、皆が見ていないところでやってくれたらええ。


これ見よがしに目の前でされたら、誰でも嫌な気持ちになるよ。
どんな人が嫁いできても、いやな思いをすると思うで。

第一、別に忙しくしてくれなくても、私らは何とも思ってないで。
私らが「介護」せんでいいだけ、有難いと思ってるし。

と、加えると、

そうやって言ってくれるんやったら、よう分かった。

と、義母から返ってきたけど、それ、前にも言った気がするし、返ってきた気がする。


私が自分の意思を、義母に主張することはそうないが、言ったことがどこまで義母に伝わったかどうかはあやふやで、すぐに忘れられるだろうことは、分かっている。

気に入らないからといって、感情的になって言ったところで、相手は変わらないし、のちの後味の悪さといったら、言葉で表現しようがない。

自分に非がないとしても、自分の未熟さに呆れるのは目に見えている。

だから、めったに言わない。


だけど、今回は、言って少しスッキリした。


いままで、そういった義母の行動に対して非があることを指摘してきたことは、二度か三度くらいある。


だけど、いままで、言っていなかったことがあった。


わたし、そのことに対して、何とも思っていませんから。


そこまでストレートには言えないけど、「ホウキで掃くのは、手のあいた人がすればいい」と、私が認識していること。

わたしが、すべきと感じてはいないこと。


それを言ったことは、なかった。


過去もふくめて、義母がやってきてくれたことは、そのまま素直にとれば、私が手が届かないところをやってくれるのだから、感謝すべきかもしれない。

だけど、いつも「わざわざ、そのタイミングでしなくても」のときで、私が何かしらをやるときに、私がやっていないことを見つけ出してでもやりだすことが多かった。

過去には、何かやるたびに「やってあげている」と恩を着せられることが多かったので、そのイメージも拭えない。

常に何かをやる度に、「やってあげている」と思われるのであれば、こちらの気が持たない。


先手を打って、自分の意思を伝えておくと楽になれる気がした。


自分がそれに対して、どう思っているのか。

伝えておく必要があると、思った。

どうせ、これからも永遠に続くかもしれないのだから。

今までこちらの思いを伝えたこともあるけれど、相手は自分の思う通りに変わらないのが当たり前。
人は自分が正しいと思ったことを、基盤に生きているのだから。
年をとった今、何をどう言っても変わらないのは当たり前。

それは自分に対する、戒めでもある。


だけど、自分の気持ちを楽にするために、伝えるのはアリかなと。

今度同じことをされたところで、もう少しだけ寛容に受けいられる気がする。
お互い距離を置いているので、そう揉めることはないけど、伝えることは大事だと改めて思う。


今朝、トイレに「洗濯用の」漂白剤が、目のつくところに置いてあった。

何をしたのか知らないけど、これまた結構マメに掃除しているトイレに、そういうものを置かれると、イラっとする自分に気付く。

だけど、イラっとするのを通り過ぎて、なんだか笑けてきた。

しばらく、放っておこう。


記事を書くにあたり、最初は、義母に物申すところで、標準語で書いていたが、まぁ、鬼嫁度が一段と増すこと!(キツイ!)

ちょっと自分を守るために、関西弁で書いておいたけど、そんなに変わらへんかな(笑)

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