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名作映画「東京物語」はアクション映画だ!
はい、どうもこんにちは
絶対映画監督主義の映像クリエイター
リドリー山下こと山下武昭です
今回は小津安二郎監督
「東京物語」について
語っていきたいと思います
いつもやっている
5段階評価については省きます!
名作中の名作なのでw
そういった評価がもはや無意味ですw
それでは
レッツ、ゴー!
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雰囲気があって良いですよね
小津映画が全ての映画表現のお手本
いきなり意味不明なことを言います
映画とは全て「間」にあり
映画そのものにおいてのすべての根幹は何か
第一にシナリオ、それから、演出…
演出とは何か
それは「間」だと思うのです
間とはすべてにおけるタイミングを規定し芝居もコントロールする
そして編集から音楽
映画全体のリズムといってもいい
もはや文字媒体であるシナリオですらも規定する場合もある
第三者が見たときに読むスピードはその読者にゆだねられるが
シナリオのストーリーの話の運ぶペースはやはり書き手にゆだねられている
丁寧に描いていくのか、思い切って省いていくのかなど…
これは小津映画だけに限らず
映画全体におけるこの「間」の構成こそが映像、映画演出の根幹と自分は思います
例えば銃撃戦
主人公がばばばばばーっとマシンガンを打つ描写があったとして
どれくらい何発撃つのか?それを決めているのも
実は「間」なのです、映画の最終形に持って行ったときにその映画における気持ちのよいタイミングで切ったりあえてずらしてみたり、また北野映画みたいにサッと強烈な銃撃描写が挟み込まれてその冷血さや暴力性を突きつけるのもあるかもしれません
やはりリズムであり「間」なのです
そこに付随してマシンガンそのものの性能だったりが加わってくる
映画に限って言えば、弾丸の数を意図的に外連味にふるためリアルとはほど遠くしてみたりなどもあると思います
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ハイスピード撮影のリズムがジョンウーアクションのリズムを規定する
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美しさとテンポに酔いしれる
弾何発入ってんねんっと
大体HP高めのジョンウー節も最高
それに伴って芝居そのものを決めるのも
間であると思ってます
日常的なシーンの芝居であっても
どれくらいの感覚と間隔で会話するのか、どれくらいリアクションをとるのか、大げさなのか、小さくうなずくだけなのかなど
その表情によって映画内の「タイミング」が変わるのです
役者の表情を含めてそれらをどこで切り取ってどこでその表情を見せるのか
ジャッジメントをしていかなければならない
それが監督という仕事だと自分は思います
アレ?大事なのは感情なのでは?
っと思う人もいるのは重々承知でいうのですが
そこを持っているのはある意味、役者の仕事であり
なんなら役者からは黙って見てろと言われかねないw
感情が大事じゃないと言ってるわけではありません
むしろ感動させるためにはそれは必要不可欠である
監督はその感情を映し出すためにどうすれば映画において効果的かを判断する必要がある
そして映画における
その「感情」を映す「具体的」なものは何ですか?
っと思うのです
人間の感情を出せっていったら例えば喜怒哀楽あると思いますが
それを表現する肉体があって肉体をどう出せば喜怒哀楽がより効果的に表現できるかという事だと思うのです
つまり映画における感情は具体性がないと意味がない
それを具体的に表現する役者こそが映画の中の具体そのものでもある
と思うのです、つまり映画の中のお芝居ですね
しかし、面白いのが…
何も映さない、例えば真っ黒な画面を見せることで感情を想起させることも可能なのが映像表現を行う映画という媒体なのです
しかしそこには、何も映さない、という選択をする必要があって
それらは何を基準に決められているかといえば
最もそれが効果的に観客に伝わるタイミングで出さなければいけない
だからこそ映画監督はそれらを理解してその「間」を決めていく
そして話の本題にやっと戻ってきましたがw
小津映画における演出はその映画の根本自体を常に規定していく
本当に「間」がうまい
この「間」を小津映画は支配しているといってもいい
つまり
自分から言わせれば小津映画は映画そのものを支配しており
小津映画がすべてにおける映画手法のお手本ともなる
っとなるわけです
小津映画はアクション映画
東京物語だけに限らない話かもしれませんが
東放学園映画専門学校で講師をしていた脚本家の新仁義なき戦いなどをやった我妻正義さんと飲んでいた時のこと
山下が「良質なアクション映画って何ですか?」って聞きました
我妻さん「小津映画だよ」
どういう意味??
っとしばらく思いました、というかだいぶ思ってましたw
そして東京物語を見たときに思うのです
先ほど言った「間」
これが抜けているようでまったく抜け目がない
風景を映している何気ないシーンにさえ
間がコントールされて表現されている
そしてこの間こそが
いわゆる「アクション」なんですよ
芝居のタイミングをコントロールして登場人物の「動き」によって
まさに心情が伝わるように映画が設計してある
その「動き」こそ「アクション」である
小津映画の芝居の動きに注目してみると
ある意味で動きのないシーンがない、無駄がない
独特のゆったりしたテンポではある、そこに動きがないっと言われる人もいるかもしれない
しかし、黒澤映画のような激しさはないにしても
テンポをコントロールして小津映画独特の間を監督が映画全体を支配しているのだ
これに気づいたとき
小津映画やばい!!っと素直に思いました
洗濯物をたたみながら会話する紀子や
家の中をせわしく動き回る孫の描写に至るまで
カメラと編集が芝居と共に一体となって
小津映画の雰囲気を規定していっている
日本的といわれる小津映画だが・・中身は実はむしろ国際的
まあそれもそのはずで
東京物語は「明日は来らず」というアメリカ映画を下敷きにしており
普遍的な人間の心情そのものはアメリカ映画に裏打ちされた
どこの国でも通用する心の動きを参考にしているからである
(明日は来らずはアマプラで配信中なので興味あれば是非見てみて欲しい)
ドメスティックに家庭内の人間関係を描きつつ限りなくそれでいて人間の心にはドラスティックさもある
日本製の川を被った活劇を見ているようで
つまり日本製のアメ車のような雰囲気であろうか
だからこそ
今でも世界中で名作とされている所以なのかもしれない
そして、後にも先にもそんな映画はどこにもない
ここに例えばこういった小津映画の手法にジャンルを持ち込んだ監督はいる
黒沢清監督が最もたる人だろうか
小津映画の熱狂的マニアの黒沢監督はそこにホラーを持ち込んだのだ
やはり小津映画は映画手法の根本を見れる
めちゃくちゃ上質な映画体験をもたらすのだ
あとがき
まだまだ
小津映画については語りがいもあるし、分析しがいもあるし
書き切れないコトもたくさんあるので書いていきたいなーと思いました
カメラワークだけでこれくらいの分量にもなっちゃうのではないか?
ッと思い
より本質的な部分だけで書いていきました
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