【読書】2024年11月に読んだ本
昨年2024年の総アクセス数はだいたい3,600ビューで、そのうち8,9割がスピーカー関連の記事です。コンスタントに毎月100ビューくらい読まれるものもあります。ありがとうございます。そろそろ次の製作記を始めたいですね。
読書感想文は読まれていないし期待されていないようですが、これは自分の整理のためなので、今年も飽かず倦まず引き続きやっていきます。
立川武蔵『空の構造 ─「中論」の論理』(講談社学術文庫)
ナーガールジュナ(龍樹)はとんでもないやつですよ。いきり倒していた出家前の時期、透明人間になって宮中の美女を全員犯すようなやつですからね。
中村元『龍樹』(1980年)は実在と名辞に関する論争の書としての中論を説明するために、専門用語の定義や、論敵の中心概念や、仏教の基本概念を丁寧に説明しました。正木晃『空論 ─空から読み解く仏教』(2019年)は本書(1986年)をベースに中論を概説した上で、日本伝来した後の密教と空思想の変容についても詳しく述べています。この二書と対比すると本書の特徴は、①聖化および俗化のベクトルを踏まえて字句を別次元別時間軸に振り分けて理解する姿勢と、②論理をベン図を利用して視覚的に捉える工夫の2点でしょう。
著者は、オットーやエリアーデを引用しながら、他の宗教と同様に中論にもまた、「俗なるものを否定して聖なるものに向かう動きが達成されれば聖なるものが俗なるものに内化される」とする思想を認めます。「俗なるものが死ななくては、俗なるものは聖なるものの力を得てよみがえることはできないからだ」(p150)。中論の目的とは、全てが否定され尽くした寂滅された世界ではなく、その先にある「空性の力によってよみがえった、すなわち聖化された言語的展開の実現によって、あるがままの存在が救済されること」(p43)だとされています。そのような前提を置いているために、中論二十四章第十八偈「諸仏の教えは、二種類の真理によってある。世俗的真理と最高真理とである」は次のように解釈されています;
「最高真理はことばに表現することができないものであるとされるが、一方では、最高真理は世俗的真理としてならばことばになることができるのである。最高真理の力に接するならば、それまで否定されてきた思惟形式が再び肯定されるのである。」(p51)
著者によれば、ナーガールジュナはこのことを世俗的な言語で示すために、「どのような命題あるいはことばも矛盾を含んでおり究極的な意味では成立しない、と論証することによって、言語的展開の止滅した次元を示そうとしている」(p94)。中論のほとんどが否定形で記述されているのはそのためだと言います。一方で肯定形は、全ての俗なるものが消えたあとに聖なるものが訪れている様相を示すと説かれます。例えば第十八章第八偈には、議論している全領域を選言的な四句分別で分類することと、世俗世界→全てが否定された世界→最高真理が世俗世界を再生する世界、の流れに沿って時間軸で描くこととが、重ね合わされています。
註書『無畏註』を参照しながら、上3行の次元は世俗の世界や止滅された世界から述べたもので、4行目は悟りの知恵を得た行者の立場(聖なるものが俗なるものを再生させた姿)から述べたものだとされます。
なお、ここで、「真実ではない〔ものである〕」は強引に感じるかもしれませんが、原典ではこの箇所は否定辞na-で記述され、述語が否定の意味になる接頭語a-ではないことから、「真実ではない〔ものである〕」と解釈できることが正当化されています。
前掲二書に比べて本書は中論の論理的な姿がより分かりやすく描かれており、より統一感ある理解の助けとなりました。
松沢裕作『歴史学はこう考える』(ちくま新書)
いきなり本書で述べられていないことを書きますが、例えば「カルボプラチンはDNAの二本鎖を架橋して複製を阻害しがん細胞を死滅させる」という日本語の文章があったとします。自然科学のピアレビュー論文を読んでいる人であれば、この意味になる以下の3つの英文には、それぞれ異なる立場が込められていることを自然に理解できます。
1.は論文というよりは「ニュートン」のような雑誌で見かける模式図に添えられた書き振り、2.は「きっとこのあとこれらの因果関係を否定するような観察結果を示すんだろうな」と思わせるイントロの書き振り、3.は実験結果を敷衍した後に節を締めるときのリザルトの小総括の文章のように読めます。
自然科学研究者はこれらの使い分けを、時制や助動詞や受動態の違いに関する共通理解として体得していくわけですが、本書で示されているのも、これらに近いような気がしました。本書では、歴史学者が日本近代史や経済史に関する史料をどのように受け止めているかを、史料引用と敷衍と小総括のやり方をもとに説明します。p86では、「~を残している」という述語一つにフォーカスして、歴史学者が新聞記事という史料からどのように情報を引き出し、どの程度の証拠能力として提示しているか、そしてその後どのような含意を読み取るつもりでいるのか、非常に丁寧に説明されています。
さらにp95では、歴史学者側(著者)の営みだけでなく、著者と読者の知識レベルの差にも注意を向け、著者が読書側に当てにしている「共通資源」の一般的な性質にも触れます。p116~125では報告や論文の構成そのものが共通資源であって、読者著者ともにそれを当てにしていることが説明されます。歴史学者の考え方とその営みとは、史料(過去の論文である場合もある)の読者である歴史学者自身が、論文の読者に向かって資源の使い方を説明する方針そのものなのだと理解しました。
本書でも何度も言及されているように、考え方と営みをこのように説明することは私たちが日常生活において見聞きしたことを会話するやり方に近いものです。その説明の方法論をエスノメソドロジーに近しいものとして描くのは妥当なことだと感じました。
歴史学者は史料引用と敷衍と小総括を使って述べ、伝えたい結論を支持しようとするわけですが、「研究者をとりまくいろいろな事情」(p232)もまたその結論に影響します。恒木・左近編『歴史学の縁取り方 ─フレームワークの史学史』(感想文)では、それは「著者の史観」だと述べられていますが、本書ではその事情として、著者の時代区分の捉え方を指摘します。その根っこには「自分が生きている時代をどういう時代だと思っているのかという、歴史についての考え方があらわれます」(p241)。これは史料に根拠があるわけではありません(p242)。
歴史にまつわる本や、神社仏閣城跡の立て看板を読むときは、どこまでが史料でサポートできて、どこからが報告者側の事情なのか、うまく区別できないといけない、と感じました。上述のようなエビデンスベースの論じ方は、学問上の特別なスタイルなどではなく、日常的な場面での会話と通底していて「まともに言葉を交わし合う」(p272)ために必要なことです。著者が本書を著したきっかけもまた、著者の日常的な事情であっていたことも理解できました(p273)。
2025年お正月はアニメを見ていました。「ぼっち・ざ・ろっく!」や「サマータイムレンダ」です。後者を見ていて、タイムリープものは自身の行為を作中作として扱えるので経済的に伏線回収できる形式である、と学びがありました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。