心の自由と責任
私たちの心は自由です。
何をしようと自由なのですが、それには必ず責任が問われます。
この責任とは「自由ではあるが代償も背中合わせにある」と言うことです。
例えば私たちの行動という面で少し見てみます。
動物園で自由に行動しましょう!
と言われたとします、こうなると自由として沢山の選択肢がありますよね、しかしあえて猛獣の檻に入ろうとする自由を選択した場合、自由と共に即責任(代償)が発生します。
まぁ極端な話しではありますが、もしこのようなことがあったとしたら責任(代償)として、肉体的に大怪我や命を落とすこともあることが理解できますよね。
もちろん、目に見える世界であれば、この自由を選ぶ方はなかなかいないと思います(笑)
しかし、このようなことが目に見えない心の自由として起きてるとしたらどうでしょうか?
今回は、この心の自由というテーマについてみなさんと探究できたらと思っています、少し難しい話しなので気になる方は少しずつ読んでいただければと思います。
心の自由とは
まず心の自由を知る必要があります、
それは「心の内側」にある自由です、
私たちは出来事に対してどう感じようが、どう思ったり、どう行動しようが自由ですよね、
この自由は、
「外側から来る様々な要素」に心が触れ、
「心の内側が揺れ動く」と言うことが起きてます。
例えば、
「夫に嫌味を言われ、嫌な気分になった」
ことがあったとします。
この場合は、外側から来た「夫に嫌味を言われた」に対して、
心の内側が「嫌な気分になった」と捉えた現象であって、
この時に内側である心はどのように捉えようが自由なんです、もちろん嫌な気分になる、ならないのも自由です。
となると心の自由とは、
心の外側で起きた出来事に対して、心の内側がどのような影響を受けてるかです。
と言うことは…
逆に外から来た出来事に対して影響を受けないこともできるということになります。
中には外からの影響を無視する心の自由を選択してる方もいます、この場合は出来事からの感情や思いの理解が難しくなります=学びになりにくいということでもあります。
何が言いたいかというと、出来事が起きても心が揺れず、常に穏やかなままに「心の統率」もう少し違う言葉を使うと「心の統治」をすることも可能ということです。
なので、心の自由を決めるのは自身であり、その出来事の思いや感情のまま影響されようが、無視して触れないでいようが、心を統率し穏やかで影響されない心を目指そうが自由と言えます。
こうやって一つ一つを紐解きながら探究し見ていくと、心の自由がどれほど外側からの影響に受けやすく、自由ではなく実は縛られていたことに気づいてきますよね、
まずはこのことを知っていただくことが重要です。
自給自足の心
ということは…
統率された穏やかな心とは、「整備されてる心」とも言えます。
ここで心の内側を土地に例えて表現してみますのでお付き合い下さい。
もし、外側から相手の感情という高波があったとします、これを浴びた心の内側(土地)が感情で水浸しになってグチャグチャだとしたら、これは相手の感情の影響を受けてると捉えられますよね、
では、整備されて水はけの良い心(土地)であればどうなるでしょうか?
感情という水は残されず流れていき、心は影響を受けません、さらに言うともっと整備された心であれば逆に感情という水を活かして愛や智慧という作物(学び)をつくる糧とすることもできます。
ではここで気になるのが「整備」という例えですよね、これは何かというと、
「内観」となります、心の内側で起きてることに対して落ち着き謙虚になり、素直に受け止める又は受け入れる、反省、感謝へと繋いでいくことが内観となり心の整備となります。
真なる心の自由とは、
様々な出来事があったとしても、それを心の成長の糧とし幸福感を生み出す「自給自足のできる心」とも言えると私は思ってます。
外部の輸入に頼る心
では自給自足があるとしたら、その反面は外からの輸入に頼る心もあります、
これは、
心として整備していくのでなく、
外部に心を委ね頼りにしてくことです。
例を上げるとしたら、
・誰かに頼りきりになってる。
・お願いすることしかしない。
・常に誰かのせいにしてる。
・もらうこと、奪うことに意識がある。
・自分の言葉に責任を持っていない。
・外部的なエネルギーや意識に囚われてる。
などであり、心の整備をして自由になる視点とは逆の方向性なので探せば色々と出てきます。
外部からの輸入に頼る心は自給自足することに気づけなく、他からの影響を心の自由と信じそれが当たり前となります、それはさらに苦しみとなります、なぜなら結果ばかりを他に委ね、原因となる芽が自分の心にある、そのことに気づけないからです。
また次なる外側から来る影響を探しだして、新しい輸入も始める依存のループに落ち入ります、それでは心を整備する視点にはなることはありません。
ここまでお伝えすると気づく方もいるかもしれませんが、この輸入となる外部は心ではありません、心に与えてる影響であって、その影響を心だと思い込んでるということに繋がります。
心を自由にできるのは自身であり、それには必ずそれ相応の努力が必要です。
その努力が輝きとなり心の光となると私は思ってます。
心の責任
では心の責任とは何でしょうか?
自由だと思い好き勝手な行動が真理から外れてたり、外部に頼ることしかない心は必ず責任(代償)を取らなくてはなりません、
それは自由という勝手な「念い」が足かせに変わり、波長としてそれぞれの世界としての責任(代償)が待ってます。
「西遊記」という物語でお釈迦様の元から遠くまで逃げたと思ってた孫悟空が、実はお釈迦様の手の平で動いてたにすぎなかったというお話しがあります。
まさにその通りで、この世の自由とは心の世界の自由のほんの一部の過ぎないということです。
それには、この世界での思いや行動として活かされたことが、心の世界として直結している事実を見なくてはなりません、合わせて1つの世界だという真理があります。
自分本位で物質的な考え方に固執するや、フワフワ浮いたスピリチュアルとして魂に届いてないことを伝える、これももちろん自由です、ではその「責任」とはどんなことになるのでしょうか?
物質的に執着し囚われたり、人を惑わす行為は地獄的な波長に近いとも言えます、この場合知らず知らず責任としてその世界に繋がる切符を手に入れてると言うことです。
これは原因と結果の法則であり、縁起として魂の世界で繰り返すということの側面でもあります。
縁起について気になる方は私のブログ時間縁起を読んでいただけたらと思います。
今回は心の自由という視点からの探究をお伝えさせていただきました。
心の自由という真の自由はここから始まります。
もしお伝えしたことが何かのきっかけになったとしたら幸いです。
お付き合いいただきありがとうございました。