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工作員、ティーナに会いに行く⑤

本記事は当初一記事で終わらせる予定だったワルシャワ紀行の五記事目であり、最終回である。
①から④はこちら↓

前話までで二日目の午後に到達し、この後はさして特筆すべきこともない。最終話は二日目の夕方から三日目の帰りの鉄道の旅までの話をタラタラと綴っていこうと思っているので、さらっと目を通していただけたらと思う。


再び旧市街にて

ワジェンキ公園から中央駅辺りまで戻って小一時間ほど周辺をうろうろした後、土産物でも物色しようかと再び旧市街へ向かった。

朝と違って旧市街には人が溢れていて、ズキンガラスは広場から姿を消していた。鳩は相変わらず大量にいるのに。朝からの観察で、ズキンガラスは「随分と人慣れしているな」という印象だった。かなりの近距離まで近づいても逃げようとしない。しかし人が多いところでは姿を見せないところからして、人が集まりすぎる場所は避ける習性があるということなのだろうか。

ところでこの観光地のど真ん中で、実は一つ、確認しておきたいことがあった。

それは「ワルシャワにも、アレはあるのか?」である。

アンタ、アレアレってうるさいなあ!
失礼、ここで言う「アレ」は、こちらの紫乃さんゆうさんご夫妻とのプラハ散歩に起因する。

ゆうさんが試したくてしょうがなかった、「Trdelník現代版」、つまり伝統的な巻き型パンにアイスやホイップクリームを詰め込んだ、アレである。

上記の記事のコメント欄にて世界の人に聞いてみたさんに「東京でもハンガリーの伝統菓子としてアレを売り出しているお店がある」と情報をいただき、益々「チェコの伝統」の嘘臭さが増したのだが、「ということは近隣諸国一帯で『ウチの伝統』と言いながら売り出している可能性がある」と思ったのである。

結果として、ワルシャワに「アレ」はなかった。正確に言うと、巻き型パンのほうはあったが、2015年以降に姿を現したというアイスモリモリ、クリームモリモリのタイプはなかった。

正面から撮りたかったが売り子のおばちゃんと目が合って気まずかったので脇から撮った。Costaも飲めるらしい。看板にアイスが写っているが、これは巻き型パンに詰めるのではなく普通にコーンを使っている模様。

この商品名として掲げられている「Kołacze Węgierskie」という言葉、一つ目の単語はチェコ語の「koláče(焼き菓子・ケーキの意の複数形。しかしtrdelníkを表現するためには使われない)」から理解できるものの、形容詞だと思われる二つ目の単語が気になる、と思い翻訳にかけてみると、「kołacze węgierskie → maďarské koláče(ハンガリー菓子)」と出てきた……!
ポーランドも、ハンガリーのものと認めているのだ!

どうも、アレに関してはハンガリーの圧勝のようである。

旧市街でこういった小さな発見をしながら、まだ夕方で明るいし別の場所に移動しようかとも思ったが、行こうとした場所へのルートが「バスを乗り継いで1時間10分」とGoogleマップに表示されたため、大人しく旧市街に残ることにした。

ズィクムント三世像を後ろから描いてみた。

暫くふらふらして、翌日の長時間鉄道の旅に備えて18時過ぎにホテルに戻った。

ホテルで色付けをした。
しかし縦に細長い碑をメインに描こうとすると構図が何とも知れない。

旧市街の夜と朝

窓からの景観に感動し褒めちぎっていたホテルのロケーションだったが、安眠を愛する人にはこの近辺に宿泊することはお勧めしない。
私も二泊しただけで、もしかすると「特別な二日間」だったかもしれないし、たったこれだけの滞在で「ワルシャワ旧市街の辺りはこういうところだ」と断定すべきではない。もしかするとワルシャワ全体がこうなのかもしれない。
私が言えるのは、2024年6月24日と25日の夜、旧市街辺りがどんな様子だったのか、ということだけである。

回りくどいな。何があったんだ?

真夜中過ぎまで続いた断続的なバイクの爆音で眠れなかったのである。チェコでは22時から翌朝6時まではこういった騒音は法で禁止されている(もちろん100%守られているとは言わない)。ポーランドでは定められていないのだろうか、そういった法律は。
とにかく、ウトウトしてくると外から「ブオンッバリバリッ」という爆音が聞こえてくる。最後に記憶にあるのが午前1時くらいだったので、それ以降はたぶんなかった。私は普段から眠りが浅いほうで、微かな物音でも目を覚ます。こんな空気を引き裂くような音が相手では、一瞬で覚醒状態に呼び戻されてしまう。

そして26日早朝三時、遠くから教会の鐘の音が聞こえてきて、目が覚めた。

さ、三時から……?
やはり音には寛容な国民性なのだろうか。
一度目が覚めてしまうと二度寝ができないタイプなので、四時頃までゴロゴロしていたが、結局起きて出発の準備をすることにした。

最後の窓からのスケッチ。道行く二人を描いてみた。

「W」に染まる工作員

8時24分発の電車に余裕を持って間に合うように、7時半前にチェックアウトに向かうと、一日目にはいなかったこの小さなホテルのオーナーかと思われる男性が対応してくれ、少し世間話をした。出身はどこなのか、と聞くので「日本だけどプラハに22年住んでるんですよ」と答えると(チェックインの時の情報を見れば一目瞭然だと思われるかもしれないが、私は身分証明書としてチェコの永住カードしか見せていない)「プラハは綺麗なところですね。ワルシャワは、プラハとは違うでしょう?」と返ってきた。

ワルシャワとプラハは違う。
この一言にどういった観点から同意するのかを書き始めて、三百字くらい書き連ねて、また消した。何だかとても感覚的な、観念的な話が始まってしまい、脱線甚だしくなったからだ。いつか機会があったら、ここに書いて消した三百字を基に何かを形にできたらと思う。

ホテルを出て中央駅までのトラムを待つ間に「家にプラハに着く時間を連絡しておこう」とスマホを取り出し書き始めて仰天した。「Varšava」と書かなければならないところを「Waršawa」と書こうとしていた。「Warš」まで書いて、気が付いた。

ポーランド語で「ワルシャワ」は「Warszawa」である。ポーランド語の「sz」はチェコ語の「š」と同じ発音だが、たったの二泊三日の滞在で「sz」と「š」の脳内変換はハードルが高い。「w」はどちらの言語でも発音が〔v〕なので、図らずも工作員、スルっと染まってしまったようだ。
ヴォランドに鼻で笑われたような気がしないでもない。

帰りの旅は9時間15分

トラムを一駅乗り過ごすという失敗をやらかしつつも(もっと中央駅の近くに停まるかと期待して車内に居残ってしまった)時間に余裕を持って中央駅に着き、プラハ終点の電車の出るプラットホームを探すと、「ブダペスト/プラハ」とある。

車内から撮ったプラットホーム。

きっとまた国境の駅ボフミーンで切り離しがあるのだろう。「いいなあ、ブダペスト」と思ったが、今回はプラハに帰らねばならない。ペーテルが車内販売に現れたらコーヒーの一杯でも買ってやろうかと思ったけど、行きも帰りもポーランド国内では車内販売はなかった。チェコ鉄道が走らせている電車だから、ポーランド側はそういったサービス要員を出す気はない、ということなのだろうか。これまでに乗った国際列車はいつも国境を越えると、その国の車内販売員が現れた気がするのだが。

平日の、しかも週の真ん中の水曜日の朝に首都を出る人、というのはほとんどいないらしく、チェコのオストラヴァに着くまで、私は一人でコンパートメントに座っていた(それこそペーテルが現れそうなシチュエーションである。笑)

帰りの落書き一枚目。

ポーランド国内では各駅での停車時間が長く、また遅れが出るのではないかと心配になったが、常に定刻通りに走っていた。そこでふと、チェコの電車の遅れは主に「無理な時刻表」に原因があるのではないか、と思い始めた。人の乗り降りが多そうな大きな駅でも停車時間が三分程度しか取っていないこともある。

ともあれ、150分の遅れを出した行きの電車と打って変わって、帰りはチェコ国内に入ってからも、三分の遅れしか出さなかった。

プラハに入る直前のスクショ。

予定所用時間は9時間12分だから、9時間15分の旅だったことになる。
ちなみに行きの電車の予定所用時間が8時間8分だったのはスピードの速い電車だったというわけではなく、帰りは国境の駅ボフミーンで58分間の停車予定が入っていたから。そのせいなのか、帰りの乗車券は行きの四分の三くらいの値段だった。

帰ってきたね

電車がポーランド国内を走っている最中は「二晩もろくに寝てないのだから本を読んだら眠ってしまうのではないか」と思い、落書きを中心に時間を潰した。

その落書きの一枚。「何が描きたかったんだ」と追及しないでやってくださるか。

しかしチェコに入った途端、空気が変わったとでも言おうか、それまで旅行気分でポヤポヤした頭だったのが、急に現実的になってきた。地続きなんだから空気は同じだろ、気のせいだろ、とは思うのだが、「○○は洗っておいてくれたか」「△△は捨てておいてくれたか」と家の中のことが気になりだし、気を紛らわせるために本を読み始めた。終点まで、眠りに落ちることは一秒たりともなかった。

朝、この日のワルシャワの最高気温は30度の予報が出ていた。きっとプラハも同じようなものだろうとは思っていたが、一日中弱冷房の効いた車内に座っていた私は外の気温のことなんて、すっかり忘れていた。

プラハ中央駅で下車した瞬間、ムワっと熱気に晒された。



あとがき

はいっ、大変お疲れ様でしたっ!
どなたに向かって申し上げてるのかって、ここまでお読みくださった読者様、貴方様でございますよ!

なんとまあ、この程度の旅でこんな長文になるとは、自分でも思ってもみませんでした。きっと旅行から時間を置いて執筆すれば、それなりにコンパクトな、まとまった記事になったのだと思いますが、記憶が新鮮な今だからこそ書けることってあるんじゃないのかなと思って、帰ってきてからすぐに取り掛かりました。

記憶力がいいと昔から自負していたのですが、「実は単に短期記憶に強いだけなんじゃ?」と最近疑い始めました。
noteでは何年も前の体験を細かく丁寧に伝えてくださる御記事によく出会います。素晴らしいなと思うのです。例えば私は2003年の夏にエストニアの首都タリンを訪問していて、その時けっこう無謀なことをしているのですが、今それを記事にしようと思ったら、たぶん10行もないくらいで終わってしまうのです。その時にあったことの前後関係もあやふや。悔しいですね。

隣国の首都ワルシャワに遠足に行った記録なんて大してドラマチックな展開にもならないだろうし、誰も面白がってくれないだろうとは思いましたが、主に数年後の自分、この細かな出来事や心の動きの連なりを忘れてしまうであろう自分のために書きました。
しかしそれをこうして公開しているからには、皆様に読んでいただきたい、という思いはもちろんありました。

ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました。


……え?それで、ティーナには会えたのかって?

旦那も野暮だねえ、それはこんな公の場で聞いちゃあいけねえよ。


自室のホワイトボードに貼っている鶫さんの羽ばたくポストカードのためにずっとマグネットを探していて今回クリムト展で買ってきたんですが、大きすぎました。どこかで手に入らないかなあ、もっと小さくて品のあるマグネット。右に写っているのはワルシャワ土産のベタなポストカード。


日本帰省に使わせていただきます🦖