背の高い道しるべ
高圧鉄塔の足元に住んでいる。
南北に伸びる送電線を支えるため、この街にいくつも立ち並ぶその塔を、初めて足元から見上げたのはアパートの下見の時だった。
近い。とにかく近い。北向きの玄関を出て、目の前が鉄塔。こういうの、気にする人もいるんだろうな。でも、好きだな、私は。だってほら、"塔の足元に暮らす"って、なんかファンタジーっぽくない?なんて思っていた。
契約を決めてから、訳あって再度自分達だけで下見に行った。部屋はがらんとしていて、それなのにひどく満たされた気持ちになって、これから夫になる人とふたり、つるりとしたフローリングに寝転んだ。窓の外の空を見上げると、アパートの南側にある一つ隣の鉄塔が見えた。
ここに、住むんだな。東京に。何の縁もない、この場所に。
隣で寝転ぶ人が「楽しみだねえ」と満足気に呟いた。
数ヵ月後、同じ部屋で私は山積みの段ボールに囲まれていた。仕事をしていないので、朝から晩までひたすら荷開け作業をしていた。
ようやく自炊できる環境が整い、初めてスーパーに買い物に行った日のことだった。まだ土地に慣れていないので、グーグルマップで道を確認してから家を出た。目的の店には無事に辿り着くことができたが、問題は帰りだった。夕日に照らされた細い道路が集まる五叉路で、私は道を間違えてしまったのだ。
行きはよいよい、帰りはこわい。
五叉路を過ぎた後、いつまで経っても見慣れた景色にならないのでもしや、とスマホで地図を確認すると、とんでもない場所にいた。慌てて現在地から家までの道順を調べて再出発したものの、住宅街で道が入り組んでいて、分かれ道のたびに不安になり、立ち止まって地図を再確認した。
よし、合ってるな。一つ行ったら、左。左。あれ、ここかな?それとももう一つ先かな?ちょっと、もう一回地図見よう。
何度もスマホを取り出して、何度もグーグルマップを確認する。地図の真ん中にぽつんと浮かぶ、現在地を示す青い丸印は、さっきからほとんど位置が変わっていない。いつの間にか夕日は沈みきり、すっかり夜になってしまっていた。家々はしんと静まり返り、街路灯の頼りない光の下に、私だけが立っていた。
どうしよう、どうしよう。
私、一人ぼっちだ。
私、ちゃんと、帰れるのかな。
いやいや、落ち着け、自分。帰れない訳はないよ。スマホもある。お金もある。私は大人だ。いざとなったら、どうとでもなるんだ。だから、大丈夫だ。焦る必要なんて、何もないんだ。
そう自分に言い聞かせてもう一度液晶画面に目をやると、孤独な青い丸印はふらふらと動き続けていた。
そうやって少しずつ進み、やっと見覚えのある道に出た。どのくらいかかったのか、正確な時間は分からなかったけれど、夜じゅう彷徨っていたような気持ちだった。
目の前の道を渡って向こう側に行けば、見慣れた景色が待っている。でも、信号を待っている私は不安だった。地図を確認しているのだから間違えようがない。だけど、そもそも家の場所を勘違いしていたとしたら?さっきの五叉路だって、絶対合っていると思ったのに間違えた。今度もそうかもしれない。いや、そうだとしても、もうどうしようもない。この道を渡るしかないんだ。どうか、どうか合ってますように。
祈るように信号を見上げると、ふと、信号の向こうに見慣れた鉄の足が目に入った。
あ。あれって、もしかして。
そうだ、間違いない。この鉄塔は、家の目の前の鉄塔の、一つ北側の鉄塔だ。首をもっと上げて、てっぺんを確認する。高い。真下から見上げると、本当に高い。
そこで私は、はっとした。数日前、夫と出掛けた帰り道、同じように道に迷ってしまった時に夫が言った言葉。
『鉄塔を目指して進めば、帰れるよ。』
そうだった。そんなこと、言っていたっけ。結局その時は、ほとんど地図も見ず、鉄塔と彼の感覚に頼って帰ったのだった。
一人ぼっちで迷った私は、不安ばかりで心がいっぱいになって、焦って手元の地図を覗き込むばかりで、周りを見渡す余裕がなかった。こんなに高くて、遠くからでもはっきりと分かる目印があったのに。
全然余裕の無かった自分にがっかりした。と同時に、やっと不安から解放された。この道を渡れば、帰れる。この鉄塔から伸びる送電線をたどれば、絶対に帰れる。この鉄塔を目指して進めば、どこにいたって、何も持ってなくたって、私は帰ってこられるんだ。
そして、もう一つ思い出したことがあった。夫は身長182cm。人混みで彼とはぐれた時に私がまずやることは、スマホを覗き込んで連絡をとることではなく、上を向いて飛び出た頭を探すことなのだ。そのほうが連絡をとるより早く見つかったりするし、顔がよく見えるからなのか、彼のほうが先に見つけてくれたりもするのだ。
私を導く、背の高い道しるべ。
すっかり落ち着いた私は鉄塔を見上げ、ありがとうね、と呟いた。
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