ブルーノ・チアリと学校という共同体
…チアリの著書『新しい教育技術』を半分くらいまで読み進んできました。
あたりまえかもしれませんが、その思想と手法は、すでに紹介したマリオ・ローディの『わたしたちの小さな世界の問題』で描かれた内容とよく似ていると思います。
チアリとローディはともに教育協力運動の中心人物でしたが、47歳の若さで世を去ったチアリに対し、ローディは92歳で天寿を全うしたようです。
なおローディは自分の著書を日本に紹介した田辺敬子さんや、イタリアの芸術家であり教育者であったブルーノ・ムナーリとも親交をもっていました。
話がチアリからローディに逸れてしまいましたが、チアリは学校を単なる教科や勉強の装置ではなく、社会の一部として捉えていたことがうかがわれます。
今日でも(特に日本では)学校教育に求められていることが教科学習以外に生活経験、社会経験の発達という面をもっているわけですが(このことは、いわゆる学習塾の役割と比較すれば明らかだと思います)、しばしば教師も生徒も、学校の生活と学校外の生活は別のものであり、学校生活のルールは学習計画によって決まるもの、と考えている傾向を感じます。
チアリは、学習者(子どもたち)は生活の中で学び成長するものであるから、学校も学習者の自然な成長のための環境としてあることが望ましい、と考えたのでしょう。
とはいえ学校は、学習者が自らそこに属することを自由に選べる、というほどに自由な社会ではありません。
とくに年度の始めには、多くの生徒や教師が、新しい学級という共同体の形成に一喜一憂するのではないでしょうか。
以下に、チアリの学校共同体についての考察を引用してみます:
第三章 学校共同体(コミュニティ)の出現
…子どもにはいくつかの「基本的欲求」があることを私たちはよく知っている。それはそれぞれの子どもの特別な「物語」によって表れ方が異なるかもしれないがダイナミックな内面の力を構成する;私たちはこの「基本的欲求」に注目して教育活動に役立てなければならない。子どもの興味関心のほとんどは、生まれた瞬間から多かれ少なかれ(個人に)制御することのできない社会的な要因によって条件づけられた「それぞれ個人の物語」に依っている。言い換えれば、子どもは学校に望ましくない服装や狭く満たされない興味、偏見、悪癖、悪い傾向などを持ち込むが、その多くは環境の影響に由来している。
学校がこれら全てを受け入れられないのは明らかだ。過去の経験を選択し、あるものを基礎とし、あるものは無視し、そして後に述べるように新しいものを推し進めなければならない。もちろん、これは道徳的あるいは言葉の介入以外のやり方で行われなければならない;一年次では、(例えとして)ピエーロが何をしたか、ジャンニが何を言ったか、などといった抽象的な議論はしない。この課題は、活動や競争、文化的・情緒的な楽しみといった共通の生活を促進し、その中で教育の目標や価値として設定した服装や倫理の規範、態度などを出現させることなのだ。つまりそれは子どもたちの有機的な共同体を作ることといえる。
Sappiamo bene che nel ragazzo ci sono alcuni "bisogni di base", che possono esprimersi in maniera diversa secondo la particolare "storia" di ciascun ragazzo, ma che costituiscono forze dinamiche interiori; di queste dobbiamo prender atto, e utilizzarle nell'opera educativa. La maggior parte degli interessi che i ragazzi manifestano, però, dipendono dalla "storia personale di ciascuno", la quale è condizionata fin dall'atto della nascita da un insieme di fattori sociali più o meno incontrollati. In altre parole, il fanciullo ci porta a scuola anche abiti negativi, interessi limitati e senza sbocco, pregiudizi, vizi e cattive tendenze, che derivano in massima parte da influenze ambientali.
È chiaro che la scuola non può accettare tutto questo. Essa deve selezionare le esperienze passate, prender le mosse da alcune e ignorarne altre, e, come vedremo, promuoverne di nuove. Questo va fatto naturalmente senza interventi moralistici o verbalistici; specie nel primo ciclo non si tratterà d' impostare discussioni astratte su quel che ha fatto Piero o su quel che ha detto Gianni. Il problema è di promuovere una vita comune di attività, lotte, fruizioni culturali ed emotive, in cui emergano gli abiti, le norme etiche, le attitudini che noi ci prefiggiamo come fini o valori dell'educazione. Si tratta insomma di dar vita a una comunità organica di ragazzi.
子どもは運動能力、行動、最も基本的な生活のルール、言葉などを、両親、特にまず母親から吸収していく。ボウルビィたちの研究によれば、さまざまな理由でこうした家族関係から阻害された子どもたちは、たとえその他の者から愛情をもってケアされても、その人格は調和的かつ十分に発達しないことが分かった。
子どもは社会生活の中で暗黙の共同体要素として構成され、ただ有機的で活発な共同体が構成された時にのみ、何よりも感覚-運動、感情、情緒の能力によって、その要素として同化される。子どもにとって家庭は最初の自然な共同体であり、その中で子どもは最初の基本的な態度、初歩的な規範や、学校に進学しながら確実に会得する言語の基礎を身につける。家庭での生活が不調和で不安や葛藤、トラウマの原因となっている場合、子どもの内面的な(内面だけでなく)成長が損なわれることは言葉を費やすまでもないことだ。
これらの考察はすべて、ある原則:教育するためには共同体を作らなければならないことを肯定するのに十分だと、私は信じている。そうでなければ、私たちは子どもの人格に痕跡を残すものの、それは否定的な痕跡となり、私たちが伝えようとする文化や価値観に対して無関心であったり敵対的な態度になるだろう。
Il bambino assimila dunque gli abiti motori, di condotta, le più elementari norme di vita e la lingua, dai genitori e prima di tutto dalla mamma. Gli studi del Bowlby e di altri hanno dimostrato che i bambini posti per varie ragioni fuori di questi rapporti familiari, anche se sono curati amorevolmente da altri, non sviluppano in modo armonico e sufficiente la loro personalità.
Il bambino assimila dunque gli elementi della civiltà impliciti nella vita sociale, solo se quest'ultima è strutturata come comunità viva e organica, di cui egli partecipi per intero, e prima di tutto con le sue capacità sensorio-motrici, emotive e affettive. La famiglia è la prima comunità naturale del fanciullo, quella in cui egli interiorizza i primi fondamentali abiti, le norme elementari, il patrimonio linguistico che venendo a scuola padroneggia con tanta sicurezza. Non spenderemo parole per dimostrare che se la vita familiare è disarmonica, fonte d'incertezza, di contrasti, di traumi, la crescita interiore (e non solo interiore) del fanciullo sarà compromessa e pregiudicata.
Tutte queste considerazioni bastano, credo, ad affermare un principio: se vogliamo educare, dobbiamo dar vita a una comunità. Altrimenti, lasceremo sì delle tracce nella personalità infantile, ma tracce negative, abiti di indifferenza o di ostilità verso la cultura e i valori che avremmo voluto trasmettere.
始まり(新学期)の共同体
学校の共同体は、他の共同体と同じように、美しく組織され突然生まれるものではない;生物のように、その構造的な要素が徐々に特定されながら成熟していくものだ。最初は、戸惑った子どもたちの集団と教室と教師しかいない。子どもたちが学校で仕事(学習活動?)や遊び、刺激や可能性を見つけて学校にいることが自分らしく生きるための最良の方法だと確信すれば、共同体の胎動は、これまで見てきたように、ほぼすぐに生まれるだろう。さらに望ましいことは、時には実現されるように、子どもたちが教室の壁が彩り豊かな生き生きとした絵で飾られているのを目にしたり、道具や材料の存在によって子どもたちの想像力が刺激されることだろう。さらに、もしも常に広がっている評判によって彼らが学校で何が行われるかを知っている状態で入学してくれば、(共同体の形成にとっては)なお望ましい。
La comunità ai suoi inizi
Una comunità scolastica come qualsiasi altra, non nasce di colpo, bell'e formata; è come un organismo vivente, i cui elementi strutturali si specificano e si maturano via via. Dapprima c'è solo un gruppo di ragazzi spauriti, un'aula, un maestro. Un embrione di comunità nasce quasi Immediatamente, come abbiamo visto, a patto che i fanciulli trovino nella scuola delle occupazioni, delle attività di gioco, degli stimoli e delle possibilità, per cui si convincono che stare a scuola è il modo migliore di vivere, di essere pienamente se stessi. Meglio ancora se, come accade in qualche caso, i ragazzi vedono le pareti dell'aula decorate di pitture vivaci e multicolori, se la loro fantasia è colpita da una presenza di certi strumenti, di certi materiali. Ancor meglio, se sono venuti a scuola già conoscendo, per un'eco che sempre si diffonde, quel che in generale si farà nella scuola.
Bruno Ciari, Le nuove tecniche didattiche Cap.3
2012, Edizioni dell’ Asino
Cap.3
引用の最後では、チアリが共同体の形成において表現活動の役割に注目していたことがわかります。子どもたちが与えられた生活環境から自分たちで作り上げる生活環境を実感するために、造形活動とその成果が学級の中に示されることは効果的である、と考えているようです。チアリや教育協力運動の教師たちは他にも学級通信の印刷活動に注力していますが、自分たちで感じ、考え、表現し、それを他者に伝え共有する:コミュニケーションのよろこびを学校共同体の形成に役立てようとしたのでしょう。
このような、学びと共同体、そして表現活動の関係を重視する姿勢は、レッジョ・エミリアの幼児教育にも見ることが出来る特徴だと思います。
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