教育の越境性をめぐる闘い:ローリス・マラグッツィの言葉から
レッジョ・エミリアの幼児教育の革新の中心人物であったローリス・マラグッツィについては、日本でも徐々に詳しい資料が紹介されるようになっていますが、英語版で出版されている『Loris Malaguzzi and the Schools of Reggio Emilia: A selection of his writings and speeches, 1945-1993』(Routeledge, 2016)は残念ながら未訳の状況です。
面白いことに、このテキストは母国イタリア語版でも未刊のようです(これもイタリア国内におけるレッジョの教育の立ち位置を理解する上で興味深い現象といえるでしょう)。
英語版の原書はAmazonでも入手可能ですが、版元の出版社HPでは「フリーブック」(無料公開版)として、同書のダイジェスト版がダウンロード可能だということがわかりました。
A Routledge FreeBook
https://www.routledge.com/rsc/downloads/FB-1609+Malaguzzi+Freebook.pdf
フリーブックとは?
WHAT’S IN YOUR FREEBOOK?
This FreeBook provides a short introduction to a unique new publication, Loris Malaguzzi and the Schools of Reggio Emilia, the latest in the ground-breaking Contesting Early Childhood series. For the first time in English, this new and unique book brings together a selection of the writings and speeches of Loris Malaguzzi, a leading figure in the evolution of the world famous municipal schools in the northern Italian city of Reggio Emilia, and one of the most important figures in 20th century education.
フリーブックとはどんなものか?
このフリーブックは、画期的シリーズ「Contesting Early Childhood」の最新かつユニークな新刊『ローリス・マラグッツィとレッジョ・エミリアの(幼児)学校』を簡単に紹介するものです。この本は北イタリアの都市レッジョ・エミリアにある世界的に有名な市立(幼児)学校の発展における中心人物であり、20世紀の教育における最も重要な人物の一人、ローリス・マラグッツィの著作とスピーチの一部を初めて英語でまとめたユニークな新刊です。
同書の編集にはマラグッツィとともにレッジョ・エミリアの幼児教育に携わってきた教育者たちと、レッジョの教育研究で著名なロンドン大学名誉教授ピーター・モスが関わっているとのことです。
モス教授のイントロダクションに紹介されている、マラグッツィの「教育における越境性」に関する部分が興味深く感じたので、簡単に紹介してみたいと思います。
INTRODUCTION TO LORIS MALAGUZZI AND THE SCHOOLS OF REGGIO EMILIA
PETER MOSS
『ローリス・マラグッツィとレッジョ・エミリアの幼児学校』の紹介
ピーター・モス
READING MALAGUZZI
マラグッツィを読む
Malaguzzi, in my reading, is a vivid example of the contention that education is, first and foremost, a political practice. And that overtly political stance was the product of post-war Italy, a context where people argued about real alternatives, believed another world was possible – and assumed education had an important part to play in bringing that world about.
マラグッツィとは、私の理解では、教育とは何よりもまず政治的実践であるという主張のあざやかな実例であった。そのあからさまな政治的スタンスは戦後イタリアで生まれたもので、文脈において人々は現実の代替案について議論し、異なる世界(の実現)が可能だと信じ - そして、その世界を実現するために教育が重要な役割を担っている、と考えたのだ。
Malaguzzi himself entirely understood the significance of context; it was an important part of what might be termed his paradigmatic positioning – the way he saw, interpreted and related to the world. Other important parts of that position, which he foregrounds increasingly as the years pass, are connectivity and complexity. ‘Interconnecting, the great verb of the present and the future’ [92.89], as he put it: and in his mind everything did connect, whether the many different facets that made the wholeness of the child; or the interplay of culture, science, economics and politics; or the growing range of disciplines that he was drawn to study, culminating in his fascination with cybernetics and neuroscience, and his insistence on the need for inter- or trans-disciplinarity [88.87, 94.90].
マラグッツィ自身は文脈の重要性を完全に理解しており、それは彼のパラダイム・ポジショニングとでも言うべき、世界に対する見方、解釈、関わり方の重要な部分であった。そのほかに年を追うごとに彼が強く主張したことが、「連結性」と「複雑性」である。「インターコネクティング(相互接続)、それは現在と未来の偉大な動詞である」[92.89]と彼は述べており、彼の頭のなかでは子どもの全体性を構成するさまざまな側面,あるいは文化や科学が相互に影響しあうことなどや:文化,科学,経済,政治の相互作用も:あるいは、サイバネティックスと神経科学に魅了され、学際的・横断的な学問の必要性の主張を頂点として、彼が研究したいと考えた学問領域が広がっていたこと [88.87, 94.90] も、すべてがつながっていた。
Seeing the connectedness of everything, together with a profound awareness of context and an understanding of the singularity of each person, led inevitably to an appreciation of complexity – and a corresponding abhorrence of the dominant contemporary discourse, with its love of classification and linearity, predictability and certainty, separation and reductionism. This discourse he viewed as outdated and in crisis, contested by new scientific perspectives and understandings: for ‘unpredictable today is a category of science’ [92.89], while:
すべてのものがつながっていることを理解し、文脈を深く認識し、一人ひとりの個性を理解することで、必然的に複雑さを理解するようになり、分類と直線性、予測可能性と確実性、分離と還元主義を愛する現代の支配的言説を忌避するようになった。彼は、このような言説は時代遅れで、新しい科学的な視点や理解によって争われる危機に瀕していると考えていた:「今日、予測不可能なものとは、科学のカテゴリーである」[92.89]
against the old distinction-separateness of sciences (in particular the ‘exact’ sciences, both technological and human) [the challenge is to] re-establish their inseparability, their communication and integration, in a trans-disciplinary framework which ought increasingly to animate both research and teaching, to defeat the classification of single disciplines. [88.87]
旧来の科学の区別-分離(特に技術系と人文系の両方の「正確な」科学の)に対して、その[課題とは]研究と教育の両方にますます活力を与えるべき学際的な枠組みの中でそれらの分離不能性とコミュニケーションとその統合を再び確立し、単一の学問分野の分類を打破することである。[88.87]
Such outmoded thinking applied to education led him to excoriate what he termed ‘prophetic pedagogy’, which:
このように流行に外れた思考の教育への適用は、彼をして「予言的な教育」と定義されるものを非難させるに至った。
knows everything beforehand, knows everything that will happen, knows everything, does not have one uncertainty, is absolutely imperturbable. It contemplates everything and prophesies everything, sees everything, sees everything to the point that it is capable of giving you recipes for little bits of actions, minute by minute, hour by hour, objective by objective, five minutes by five minutes. This is something so coarse, so cowardly, so humiliating of teachers’ ingenuity, a complete humiliation for children’s ingenuity and potential. [98.92]
その教育は、すべてをあらかじめ知っていて、起こるであろうことをすべて知っていて、すべてを知っていて、一つの不安もなく、まったく平穏である。それはそのため、分単位、時間単位、目的単位、5分単位で、ちょっとした活動のレシピを提供することができる。これはある種の非常に粗雑で、卑怯なもので、教師の創意工夫に対する侮辱であり、子どもたちの創意工夫と可能性に対する完全なる侮辱なのだ。[98.92]
Rather than a longing for predictability and regularity, Malaguzzi valued uncertainty, desired wonder and amazement, loved to marvel at the totally unexpected.
Malaguzzi was an educator par excellence and not just an educator, but an educator who assumed leadership for the educational project in Reggio Emilia.
マラグッツィは予測可能性や規則性への志向より不確実性を重視し、驚きと驚異を求め、まったく予期しないことに驚嘆することを愛した。
マラグッツィは卓越した教育者であり、また単なる教育者ではなく、レッジョ・エミリアにおける教育プロジェクトのリーダーシップを担った教育者であった。
マラグッツィの「越境性」に関するモス教授の指摘は、レッジョの有名な展覧会「子どもたちの100の言葉」が当初「眼が壁を越えるなら(l'occhio se salta il muro)」というタイトルであったことを連想させます。
レッジョの教育における「インター・ディシプリン」の思想は、マラグッツィの言葉に示された「創造的な教育への侮辱を打ち破る」ものなのでしょう。
…マラグッツィと比較するのもおこがましいことではありますが、ささやかながら幼児教育と初等教育の現場に携わった過去を振り返ると、初等教育における教科の区分や、カリキュラムで定められた教育内容を一定期間内に全うしなければならない教育は、特に10歳以下の発達の個人差の大きい子どもたちにとってどこまで効果的か?と感じる場面がありました。
残念ながら同じような疑問は幼児教育の世界にも存在することでしょう。
マラグッツィが強い言葉で糾弾しているように、学びのカテゴライズが、学ぶ者と学びを助ける者の双方の創造性に対する「侮辱」になってしまっている、という状況があるとすれば、これに抗うことは子どもの権利であり、大人の義務であるのかもしれません。
もしもこのような「区分の壁」が学びの阻害につながる場面に直面したなら、その壁を破るための手立てを考え、試し、提案していかなければ…と、マラグッツィの言葉に触れながら思うのです。
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