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レッジョ・エミリアの幼児教育の背景:「ライカ」とは何を意味するのか

「よりよい教育とは何か」という問いは常に大切なものですが、ともすると私たちは遠くの世界に私たちの知っているものより良いものがあって、その良いものを引き寄せることで自分たちの問題が解決するのでは、と夢を見ます。
遠くの世界にはその世界なりの困りごとや問題があることにまで思い至らないままに「隣の芝生の緑を取り上げて自分たちの問題を論じる」ことには、いろいろな落とし穴が隠れているように思います。

レッジョの幼児教育の形成について、その中心的な存在だったローリス・マラグッツィの言葉をレッジョの教育者たちとピータ・モスが整理した『ローリス・マラグッツィとレッジョ・エミリアの学校:Loris Malaguzzi and the Schools of Reggio Emilia: A selection of his writings and speeches, 1945-1993』(英語版、Routeledge, 2016)は本邦未訳ながら、出版社のHPからそのダイジェスト版が無料で入手することができます。
イタリアの、マラグッツィと長年ともに仕事をしてきた教育者による編集であるということに加え、イギリスの研究者であるモスの視点からレッジョの教育の背景は外国人に分かりやすく解説されているので拙いながらその一部を紹介しつつ、イタリアの教育人には自明であっても私たちにはわかりにくい教育と社会の背景について少しだけ考えてみたいと思います。

He was opposed to Church schools, which dominated early childhood education for years, in principle as well as for the way that many were actually run, and favoured a secular education system, arguing in the 1970s for a national system of preschools funded by the State but run locally, by comuni. This critical attitude towards Catholic education did not, however, become disdain; several documents emphasise that his political opposition was conducted with respect and a willingness to dialogue and indeed to find some measure of compromise [e.g. 61.75].

彼は長年にわたり(イタリアの)幼児教育を支配してきた教会学校に対して、その理念と実際の運営方法に反対し、世俗的(※非宗教的)な教育システムを支持し、1970年代には国が資金を提供するが、各地の自治体(コムーネ)が運営する全国的な就学前教育システムを主張していた。しかし彼のカトリック教育への批判的な態度は、軽蔑的な態度ではなかった;いくつかのドキュメントには、彼の政治的な反対が敬意と対話への意欲、そして実際にある程度の妥協点を見出すために行われたことが強調されている[e.g. 61.75]。

モスの解説(英文)にある「secular education」(世俗的な教育)は、イタリア語で書かれた(主にレッジョ・チルドレンの)資料の中にはしばしば「ライカ:laica」と表現されています。この「世俗的な教育」とはどんな教育のことなのか、私たちに戸惑いを感じさせます。

イタリア人にとっては改めて説明するまでもないのでしょうが、「世俗的な教育」が現代イタリアの幼児教育の改革にどれほど重要だったかを理解するには、少しだけイタリアの歴史について知る必要がありそうです。特にイタリアの教育の歴史については田辺敬子さんの遺された研究(『田辺敬子の仕事』社会評論社、など)が手がかりになります。

イタリアが近代国家(イタリア王国)として統一されたのは1861年、日本の明治維新(大政奉還が1867年)とあまり変わらない最近の出来事でした。ただしこの時にもローマを中心とするイタリア半島の中央部はローマ・カトリック教会(法王庁)の領地であって国家としてのイタリアには含まれないという歪な状態で、法王庁領がバチカン市国の中に収まるのは1929年のことです。

法王庁はイタリアだけでなくキリスト教世界(主に西ヨーロッパ)全体に君臨する、という考え方がありますから、近代国家としてのイタリアが出来たからと言ってイタリアの法律に従うことには抵抗があったのでしょう。また一方でイタリア半島の隅々までカトリック教会の影響力は及んでいたので、ある意味19〜20世紀半ばまでイタリア社会は二重権力の下で教育制度が運用されていたと考えられます。

各地の教会の長はしばしば地域の権力者の一人でもあったようです。そのせいか「農民や貧しい人々が文字を読めないままであった方が教会権力の維持にとって都合が良い」と考える保守主義の思想はカトリック教会の中に根強く存在しました。19世紀末のイタリア各地の非識字率(文盲率)の記録が早田由美子さんの研究(「モンテッソーリ教育思想の形成過程」勁草書房)に紹介されていますが、比較的マシだったイタリア中北部(ロンバルディア地方、トスカーナ地方)でも50%前後の国民が文字の読み書きができていなかった、とあります(イタリア南部では非識字率80%以上)。

一方、1827年イタリア最初の保育園は、聖職者でもあったアポルティによって作られたそうですし、貧しい人々の子どものための養護や保育を実践した人々もまた、教会の関係者でした。

人々が貧富にかかわらず平等に教育を受ける機会と権利をもつ、という民主主義の考え方からすれば、近現代イタリア社会の非識字率、就学率の低さの背景に教会による教育の管理がある、という見方が生まれたことは私たちにも理解できます。
特にレッジョ・エミリアは第二次大戦で多くのレジスタンス(反ファシズム)闘争の犠牲を出した地域でしたから、このような歴史的背景の中から生まれたレッジョの幼児教育が「教会による幼児教育から、民主的で教会に管理されない世俗の幼児教育」の実現を目標に掲げたことには相応の理由があったことがわかるのです。

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