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イタリアの「子どもを尊重する教育」に関わる人たち

論文にまとめるにはテーマが広がりすぎるのと、自分の興味の対象への理解を深めるために調べたあれこれの整理として、まとめてみました。

イタリアの「子どもを尊重する教育」というと、今日まっさきに思い浮かぶのはレッジョ・エミリアの幼児教育かもしれません。
レッジョ・エミリアの幼児教育の発展を牽引した人物、ローリス・マラグッツィの「子どもたちの100の言葉」という詩は、従来の教育が子どもに「大人の学びを強いている」ことの問題を指摘しています。

子どもには
100の言葉がある。
(それからもっともっともっと)
けれど99は奪われる
学校や文化が
頭と体をバラバラにする。
(部分、田辺敬子訳、2012)

マラグッツィが掲げた「子どもの権利」を尊重する教育の理念はマラグッツィ一人のものではなく、戦後イタリアの教育史の中に散らばりながら小さく光っているように思います。小さく光っている、というのは、このような問題定義が生まれる背景には「子どもを尊重していない教育」の存在が社会に広く存在すると考えられるからです。多かれ少なかれ日本同様にイタリアの教育界も様々な問題を抱えている、という前提を認める必要があると思います。

第二次世界大戦中、イタリアは日本やドイツと共に枢軸国として連合国と戦いましたが、実はイタリア国内にファシズムに抵抗しレジスタンス活動に身を投じるイタリアの若者が少なからず存在しました。レジスタンスはローマ以北、中部から北部イタリアに多く、同胞であるイタリアのファシストと戦い、大戦末期はドイツ軍と戦って多くの犠牲者を出しています。

戦争の時代にレジスタンスの地下活動に関わった若者たちの中から、その後のイタリアの「子どもの権利を尊重する教育」を発展させた教育者たちが生まれました。ローリス・マラグッツィもその一人ですが、他にもブルーノ・チアリ、マリオ・ローディ、そして国民的童話作家となったジャンニ・ロダーリなどが挙げられます。

これらの人物は、実はすこしずつ離れた場所と時間の中に点在していたようです。
ローリス・マラグッツィはレッジョ・エミリアに、ブルーノ・チアリはフィレンツェ近郊(チェルタルド)に、マリオ・ローディはクレモナ近郊(ピアデーナ)に、そしてロダーリはピエモンテ(トリノ)に生まれ育ちました。

戦後の時代に教育の志を抱いた彼らは、それぞれ主に生まれた土地の周辺を移り住みながら教育者として世に知られるようになっていきます。例外的なのは作家のロダーリで、彼はミラノで学び、ローマでジャーナリストとして活躍しながらチアリやローディ、マラグッツィと接点をもちました。

1950年代末、フィレンツェのチアリは仲間たちと「教育協力運動(MCE)」という運動を組織し、主に初等教育における「子どもを尊重する教育」の実践に取り組みます。具体的には、子どもの興味や関心に寄り添った柔軟な教育カリキュラムを作り、セレスタン・フレイネ(フランスの教育者)に感化され簡易印刷機を活用して児童が文章を作って新聞を発行したり他の地方の子どもたちと交流する教育手法を実践しました。チアリとローディはMCEで中心となって活動し、その後MCEの教育に関する出版物を作る計画にロダーリが協力した、ということのようです。

1960年代半ばチアリはフィレンツェの北エミリア・ロマーニャの古都ボローニャで教育の仕事に関わり、この時代にマラグッツィと親しく関わったようです。チアリの名は日本ではあまり知られていないようですが、レッジョ・エミリアの幼児教育に関するイタリア語の資料の中にはチアリの名前がちらちらと登場します。

マラグッツィがレッジョ・エミリアで公立保育施設の改革に取り組んだ1970年、ローディは自身の教育実践記録を元に『私たちの小さな世界の問題(原題は『il paese sbagliato:間違った村』)』を出版し、イタリア国内で大きな反響を呼びました。
同じ年、ボローニャではチアリが47歳の若さで没しています。

もうひとり、同時代に「子どもを尊重する教育」を実践した人物としてドン・ロレンツォ・ミラーニという聖職者がフィレンツェにいました。従来イタリアの幼児教育は、カトリック教会の附属施設を中心に展開されてきたのですが、カトリックの巨大な組織は戦争中ファシズムと協定を結んで既得権益の維持を図ったという暗い経緯があります。ミラーニはそんなカトリック教会の中で権威に反抗する存在だったようで、疎まれてフィレンツェからバルビアーナという貧しい村に左遷され、そこで子どもたちに寄り添う小さな学校を開き、その記録を1967年『落第生から女教師への手紙』として病床から世に送り出して44歳で没します。

改めて整理していくと、ローリス・マラグッツィとマリオ・ローディ、ブルーノ・チアリとマリオ・ローディ、マリオ・ローディとジャンニ・ロダーリ、ジャンニ・ロダーリとローリス・マラグッツィが、それぞれ直接的に関わり合っていたことが確認されています。
(またミラーニとローディは学校間文通を行っていたようです)

1950年代から1990年代にかけてイタリア国内の(ただし主に北部イタリアの各地で、全国区とはいえない)教育に関わって生きたこれらの人物の相互の影響によって、イタリアの「子どもを尊重する教育」の理念と実践が少しずつ深められ広められた、と考えることができるのではないでしょうか。

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