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文章が変わる、世界が変わる - 町田康『俺の文章修行』の文章論

町田康『俺の文章修行』は、単なる文章指南書ではない。作家自身が長年にわたり行ってきた文章修行の過程を赤裸々に語り、独自の文体論を展開する、異色のエッセイ集だ

本書を読み進めるにつれ、読者は自らの内にある「文章変換装置」の存在に気づかされ、それを磨くことの重要性を痛感させられるだろう。そして何より、町田康という作家の圧倒的な文章力に、ただただ唖然とするほかない。

本書は、文体、つまり「どのように書くか」に大きく焦点が当てられている点にある。言葉の選択、配置、リズム、そして情報の取捨選択。これらの要素をどのように操作するかによって、文章は無限の表情を見せる。

町田は、自身の文章を構築する過程で用いてきた様々なテクニックを、「かさね、刻み、間引き」などの独特の表現で解説する。これは、描写はいくらでも細かくできることを示したり、あえて説明しない表現を作ることで読者に疑問を持たせたりといった、具体的な技法を指している。

そして驚くべきことに、本書の文体自体が、まさにこれらのテクニックが満載の事例集のような内容になっているのだ。例えば、町田が子供の頃に親に与えられた『ちからたろう』という本について語る場面。「子供の頃、親に『ちからたろう』という本を買ってもらった」と簡潔に表現できる内容を、町田は「…いまのように個性を重んじるなどという愚劣なことを言わなかった時代なので、みなが読んでいるなら自分の子にも読ませなぬとあかぬとどの親も子供に買い与えた本で、『ちからたろう』という題であった」というような書き方をする。

まず目を引くのは、独特のリズム感だ。「…ので皆が読んでいるなら自分の子にも読ませなぬとあかぬとどの親も子供に買い与えた本」という部分の畳み掛けるような表現は、読者に心地よい高揚感を与える。また、「個性を重んじるなどという愚劣なこと」という表現には、町田特有のユーモアと批評精神が表れている。本来は肯定的な意味で使われる「個性」という言葉を、あえて「愚劣なこと」と表現することで、現代社会への皮肉を込めているのだ。このような言葉の選択と配置の妙が、読者を惹きつけ、飽きさせない。

このような文章のリズム、言葉の選択、独特の言い回しが、町田の文章全体を覆っており、読者はまるで音楽を聴いているかのような感覚に陥る。

意味を理解するだけでなく、言葉そのものの響き、リズム、そして言葉と言葉の間の余韻を楽しむ。これこそが、町田が本書で提唱する「文章そのものを楽しむ」という読書法なのだろう。

町田は、筋の面白い作品は一度読めば満足してしまうため、何度も読むことができないと述べている。物語の筋を追うのではなく、文章そのものを楽しむという読書の仕方をすることで、文章力を鍛えることができるというのだ。

文章そのものを楽しむとは、作者がその言葉をそこに置くときに、作者の胸にあったこと、一人の人間とその言葉の距離を知ること。つまり、言葉を通して作者の内面世界に触れ、その言葉が生まれる背景や文脈を理解することなのだろう。それは、世界と言葉の新しいフレームが自分の中に築かれるということでもある。言葉を通して世界を捉え直すことで、自分自身の表現力もまた、豊かに育まれていく。

本書は、町田康の文章作法を解き明かすだけでなく、言葉と世界の関係、そして人間と表現の関係についての深い洞察を与えてくれる。言葉を操る全ての人、文章を書くことに携わる全ての人、そして町田康という作家の表現世界に魅せられた全ての人にとって、示唆に富んだ一冊と言えるだろう。

言葉を刻み、重ね、間引くという修行の果てに、どのような風景が見えるのか。本書は、その一端を垣間見せてくれる貴重な機会を与えてくれる。それは、言葉に対する新たな視点を与えられ、自身の表現世界を拡張する旅への招待状と言えるかもしれない。


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