わざとではない行為には腹が立たない
自分の手というのはよく目に入る。右手の甲にこないだ出来た引っかき傷が、この文章を書いていても視界に入ってくる。
先日、施設で僕が担当する利用者さんに手を引っかかれた。
自閉的な彼はちょっとした変化に動揺してイライラして職員を叩いたり、引っかいたりしてしまう。 まあ、彼も他者を傷つけたくてしたのではなく、衝動的にしてしまう行為だから仕方ない。
仕事以外でも、わざとではない行為には腹が立たない。
すなわち許せる。
他者に対してそういうスタンスで接しているから、自分も故意にではない失敗ならば怒られない、という甘えた感覚がある。 人によっては甘えたこと言ってるんじゃない、と怒る人もいるかもしれないけれど、僕は甘えていいと思っている。
もちろん、いつもいつも他人におんぶにだっこ、というのはよろしくないけれど、適度に人に甘えるのは大事だと思う。
ぼくあたりは人に甘えたり、助けてもらいながら暮らしていることこの上ない。
さきほどの理由から、あまり罪悪感を感じずに済んでいる。
そのおかげで自然体で行動できている。
だから、みなさんに感謝している。
だから、そんなに偉そうなことは言えない。
他者に向けたまなざしは自分に返ってくる。
他者を許すことをしていくことで、自分を許すことが出来るようになっていく。 自分がやったことは結局そのまま自分が受け取ることになる。 これを応用すると、誰かを癒そうと思った瞬間に、自分自身もその思いによって癒やされていく。
人の不完全さを許せた時、自分自身の不完全さも許すことが出来るようになる気がするのです。 そういう意味では、他人を許すのは自分のため、自分を許すための行いです。
でも、なかなか自分のことを許せないことがあると思います。
そんな時は、許そうとしてみることが大事だなと思うのです。
でも、そううまくいかないこともあると思います。
自分を許せないときは、
いまは自分を許せなくてもいい、
と許せない自分を許してあげるのもありかなと思います。
誰かを許すことは自分を許すこと。
自分を許すことは誰かを許すこと。
最後は、なんだか禅問答みたいになってしまいました。
(2023年1月18日に書いた記事です)
自分に返ってくるってのは分かるよね。
逆に、人に厳しい人は、自分にも厳しいところがあると思う。
日本社会の発展には、厳しい部分も必要だよね。緩い事ばかりだと品質の低下のリスクも出てくる。誰かに提供するサービスも厳しく管理していくからこそ、他と違う良い物や新しいアイデアが生まれるという側面を忘れたくない。ケースバイケースで使い分けることができる柔軟性があるといいんだろうね。