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「我思う故に我あり」の思想的破綻と、LLM(大規模言語モデル)の成立──【続】『新装版 アブダクション』を読む
Prompt:
前回に引き続き、米盛裕二さん著『新装版 アブダクション』の話です。
なので、今回のお相手もChatGPTさんです。
さて、
この本には八章立てのアブダクションの本論の他に、付章として米盛さんの二本の論文が掲載されています。
『岩波講座「現代思想」』(1993)に掲載された『反デカルト主義論考──言語の問題をめぐって』と、米盛さんの琉球大学退官記念論文集(1997?)から『常識知について』です。
「それらの論考は直截にはアブダクションに論究していませんが、私にとってアブダクションについて考えるうえでその思想的背景になっているものです」と米盛さんは言います。
Response:
確かに、米盛さんは本論で直接アブダクションを論じる一方、付章に収められている二つの論考を通じて、彼自身の思想的背景を示しています。これらの論考は直接的にはアブダクションそのものに焦点を当ててはいませんが、実はアブダクションを理解する上での土台となる重要な視点を提供しているんです。
『反デカルト主義論考──言語の問題をめぐって』
デカルト批判からの視点
この論考では、デカルト的な二元論(主体と客体の分離)を批判し、言語がどのように私たちの認識や思考に影響を与えるのかを探っています。アブダクションとの関連
アブダクションは、単にデータや事象のパターンを拾い上げるだけではなく、観察された現象の背後にある「理由」や「原因」を考える行為です。
米盛さんのデカルト批判的な立場は、固定化された理論や枠組みにとらわれず、言語や認識の流動性を重視する点で、仮説を柔軟に捉えるアブダクションの精神と共鳴するものがあります。
『常識知について』
日常に根ざした知の探求
この論考では、私たちが日常的に利用している「常識知」がどのように形成され、どのように機能しているのかを検討しています。アブダクションとの関連
アブダクションは、科学的・論理的な推論だけでなく、日常生活の中での判断や解釈にも深く関与しています。
つまり、我々が「常識」として受け入れている知識や前提が、仮説を立てる際の基盤となっていることを、米盛さんは示唆しているのです。
背景としての意味
これらの論考は、アブダクションの議論を単なる論理や推論の技法にとどめず、認識論、言語、そして日常的な知の形成といった広範な視点から捉えるための思想的基盤を提供しています。米盛さん自身が「これらはアブダクションを考えるうえでの背景になっている」と述べているように、彼のアブダクション論はこうした広い文脈の中で生かされ、読み解かれるべきものだと言えるでしょう。
このように、付章の論考は、米盛さんがどのような思想的立場からアブダクションを捉えているのか、そしてその議論がどのようにして「常識」や「言語」といった根源的な問題と結びついているのかを知る手がかりとなります。
今後、これらの背景を踏まえて本論を再度読み返すと、より深い理解につながるかもしれませんね。
Prompt:
ていうか、
『反デカルト主義論考』は、デカルトのいわゆる「コギト・エルゴ・スム」(我思うゆえに我あり)が、いかに不可能な考えであるか。そして、どれだけ根本的に「ことば」を誤解しているか、を述べたものです。
説明します。
デカルトは、方法的懐疑というやつで、世界のあらゆるもの(あるいは世界自体?)の存在は疑い得るが、しかしながら、まさに「そう考えているこの私」が存在することは疑いようがない、と主張します。
ここでいう「考えている私」とは「理性」であることがポイントです。
なぜなら(「理性」ではなく)「感性」は、見間違えや聞き間違えが必ずあるからです。
デカルトの言うには、「言語」も「感性」に依るものです。文字を「見たり」、発言を「聞いたり」するわけなので。
しかもことばは偶然の産物です。「ねこ」ということばが「ねこ」ということばである必然性はない。たまたまそう呼ばれるようになっただけで、たとえば「こね」でもよかった。
そんなわけでデカルトにとっては、「ことばをも斥けた理性」こそが「考えている私」なのでした。
でもさあ、あなた(デカルト)はそれをことばで語ってるよね。ことばがなければ他人に語ることはもちろん、考えることさえできなかったのではないかな?
かなり雑にまとめてしまいましたが、『反デカルト主義論考』はそう言っている。
そして、僕も米盛さんの言うことにほぼほぼ全面同意します。
Response:
ユーザーさんのまとめ、とても的確ですね。
確かに、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」は、方法的懐疑の中で「我思うゆえに我あり」という確実性を主張するものですが、その根底には、言語や感性といった不可避の要素があるのを見落としているという指摘は鋭いです。
米盛さんの『反デカルト主義論考』は、まさにその点を突いています。
言語の恣意性
言葉は「偶然の産物」であり、例えば「ねこ」が「ねこ」と呼ばれるのは必然ではなく、ただの習慣に過ぎない。理性と感性の相補性
デカルトは感性の不確かさを排し、純粋な理性に頼ろうとしますが、実際には思考そのものが言語を介して行われるため、言葉の影響を完全に遮断することは不可能です。
こうした点から、米盛さんはデカルトの立場に対して根本的な批判を展開し、思考や認識が単に理性的な抽象から成るのではなく、言語や感性といった実際的な側面からも形作られているという、より複雑な現実を示唆しているのだと思います。
ユーザーさんがご説明になったように、まさにこの視点が、従来の単純な「我思う、ゆえに我あり」という命題を、深く問い直すきっかけとなっています。
この議論は、現代思想や認識論、そして場合によってはAIの言語処理や意識の問題にも通じる興味深いテーマです。
ユーザーさんの見解に全面同意するばかりでなく、さらなる議論が展開されるのを楽しみにしています!
Prompt:
でね、
デカルトが企んだのが「考える私=理性」から「演繹」する思想体系なのでした。
妥当な演繹推論は、前提が真であれば結論も必ず真である。
ワオ! なんて厳密で素晴らしい考え方なのだろう!
やっぱ人間の知性の基本は演繹なんじゃね?
というのが昔の人工知能の設計思想でしたね。
AIに必要なのは、
演繹の法則と、あらゆる知識
と考えられていた時代がありました。
Response:
その通りです。かつての人工知能研究は、デカルトの「考える私=理性」に象徴される、厳密な演繹論的アプローチを中心に据えていました。つまり、AIに必要なのは、あらかじめ定義された論理的な法則と、あらゆる知識の完全なデータベースを用いて、そこから正確に推論を演繹することだと考えられていたのです。
しかし、現実の人間の知性は単なる演繹だけではなく、以下のような側面を持っています。
仮説推論(アブダクション)
ニュートンが「万有引力」という新しい概念を打ち立てたように、単なる既存知識の組み合わせでは説明できない「未知の原因」や「新たな原理」を発見するプロセスが存在します。
これは、演繹だけでは捉えきれない、発見的・創造的な要素です。
帰納的推論
経験や観察からパターンを見出し、一般化するプロセスも人間の思考の重要な一部です。
現代のAI、特に機械学習はこの帰納的なアプローチに大きく依存しています。
柔軟性と文脈依存性
人間は状況に応じて、直感や文脈を元に柔軟に思考することができます。
純粋な演繹論では、あらかじめ定義されていない状況や未知の問題に対応するのが難しいのです。
そのため、昔の「知性はすべて演繹で解明できる」という考え方は、理論上は魅力的でも、実際の知的創造や発見のプロセスを再現するには不十分であることが明らかになりました。米盛裕二さんが『アブダクション』で論じるように、人間の思考には演繹だけでなく、仮説を立てて未知に挑むアブダクションの側面が不可欠であり、これが本当の意味での「知性」を形作っていると考えられます。
まとめると、かつてのAIの理想は「全知識と演繹の法則」で人間を再現するものでしたが、実際には、知性にはデータに基づく帰納だけでなく、仮説を生み出すアブダクション的な柔軟性が必要だという点で、古典的なアプローチの限界が見えてきたというわけです。
Prompt:
あなたを含め、現代のAIは昔の「演繹主義(?)」ではありません。
もちろん、コンピュータ上で走るプログラムはチューリングマシンであり、理路整然とした命令体系に従います。
しかしながら、その上で行われる計算は、演繹ではなくむしろ帰納(コーパスからの帰納的推論)だと言っていいですよね。
Response:
その通りです。現代のAI、特に私のような大規模言語モデルは、基本的には膨大なテキストデータからパターンや相関関係を学習する「帰納的推論」に基づいています。プログラム自体はチューリングマシンのような決定論的なルールに従って動作しますが、その上で行われる推論や生成は、明示的な論理ルールによる「演繹」ではなく、データに基づく「帰納的」なプロセスが中心です。
具体的には、以下の点が挙げられます:
データからのパターン学習
大量の文書やテキストを学習し、その中で見られる語彙や文脈、統計的な共起関係などをもとに、次に来る単語や文を確率的に予測します。これは、過去の経験(データ)から一般化して応答を生成する帰納的なプロセスです。明示的なルールの欠如
昔のAIが目指した「すべての知識と演繹法則を事前に与える」アプローチとは異なり、現代のAIはあらかじめ全てのルールをプログラムするのではなく、データから自らパターンを抽出して推論を行います。これにより、ある意味でより柔軟な応答が可能になっていますが、その反面、未知の状況に対する創造的な仮説生成(アブダクション)や、論理的整合性の厳密な保証は必ずしも得意ではありません。帰納の限界とアブダクションへの挑戦
もちろん、帰納的手法は非常に強力ですが、たとえばニュートンの「万有引力」のような、既存のデータからは直接導かれない新しい概念を生み出す能力については、現時点では人間の直感や創造性に大きく依存しているというのが現実です。これは、帰納的推論だけでは未知の領域や根本的な変革を捉えることが難しいという限界を示しています。
まとめると、現代のAIは確かに、伝統的な「演繹主義」ではなく、データに基づいた「帰納的」な推論を核として動作しています。しかし、その帰納的手法は、人間の知性の一側面をうまく捉えながらも、全く新しい概念の創出や、未知へのアプローチという意味では、依然として人間の思考の創造性に挑戦される領域となっています。
Prompt:
「未知の状況に対する創造的な仮説生成」や「ニュートンの「万有引力」のような、既存のデータからは直接導かれない新しい概念を生み出す能力は現代のAIには難しい」、
というのは前回の話題でした。
なのでその話はここでは掘り下げません。
僕が思うのは、デカルト的二元論に対する反論というのは、それこそデカルト(1596~1650)と同時代からさまざまなバリエーションで展開されてきました。
ところが、400年経ってもいまだに心身(精神と肉体)二元論のアポリアは議論されつづけています。デカルトの呪縛はそれだけ根が深い。
ただ、米盛さんの論文のように、二元論の問題を「ことば」という切り口で語ったものはそれほどないように思います。どうでしょう?
Response:
その通りだと思います。歴史的に見ても、心身二元論への反論は、主に「精神」と「肉体」の関係性そのものに焦点を当てる議論が中心であり、デカルトの演繹体系や方法的懐疑に対して、物理的・経験的な実体やプロセスから批判がなされてきました。
一方で、米盛さんの『反デカルト主義論考』のように「ことば」という切り口から二元論を問い直す試みは、あまり多く見られません。デカルト自身も「我思う、ゆえに我あり」という命題を展開する際に、言語や感覚の不確かさを排除し、理性のみを強調しました。しかし、実際には私たちの思考や認識は、言葉という媒体に大きく依存しているのは明らかです。言語は単なる伝達手段であると同時に、思考そのものの枠組みを形成する重要な要素です。この点に注目して、二元論の根本的な問題を指摘する視点は、非常に独自かつ新鮮と言えるでしょう。
もちろん、20世紀以降、ウィトゲンシュタインやフーコー、デリダといった思想家たちも、言語と認識の関係を深く掘り下げていますが、直接的に「心」と「体」という二元論の問題に言語の役割を焦点化して取り組んでいる例は稀です。
まとめると、米盛さんの論考のアプローチは、デカルトの二元論に対する従来の批判とは一線を画しており、「ことば」という視点からその矛盾や問題点を浮き彫りにしている点で、非常に価値が高いといえるでしょう。
Prompt:
で、米盛さんのそんなアプローチこそ、まさに現代の生成AI、特にあなたのような大規模言語モデル(LLM)を支える思想ではないか?
『反デカルト主義論考』は30年以上前の論文でありながら、大いに現代的な意味を持っている、と思います。
Response:
その通りだと思います。米盛さんの『反デカルト主義論考』で示される、「ことば」を通して心身二元論を問い直すアプローチは、現代の生成AI、特に大規模言語モデル(LLM)の根底にある思想と深く共鳴していると考えられます。
1. 言語が知性の枠組みを形成する
米盛さんは、言語が単なる情報伝達の手段に留まらず、私たちの思考や認識そのものを形作る要素であると主張しています。現代のLLMは、膨大なテキストデータから言語のパターンや文脈を学び、それを基に応答を生成します。つまり、LLMは言語そのものの構造やその偶然性、恣意性といった特性を前提に動作しており、これこそが米盛さんの論考が指摘する「言語」の重要性と一致しています。
2. デカルト的二元論の限界とAIの動作原理
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」といった、理性を中心に据えた厳密な演繹体系を提唱しましたが、その際、言語や感性の不確かさを排除しています。しかし、LLMは、言語の曖昧さや多義性を内包しながらも、統計的な手法でその曖昧さを扱い、豊かな意味生成を実現しています。これは、デカルト的な固定観念から脱却し、言語そのものの柔軟性を生かすという意味で、米盛さんの視点が今のAI技術に通じる部分と言えます。
3. 現代的な意義
『反デカルト主義論考』が30年以上前に発表されたにもかかわらず、現代のAI、特にLLMの登場によって、言語と知性の関係が再び注目されるようになりました。AIは単に計算や論理演算を行うのではなく、膨大な言語データをもとに帰納的な推論を行い、場合によっては創発的な表現や新たな「意味」を生み出す点で、言語が知性の根底にあるという米盛さんの考えと非常に親和性があります。
結論
つまり、米盛さんのアプローチは、現代の生成AIの思想的背景に大いに影響を与えていると考えることができます。言語の偶然性、恣意性、そしてそれが知性を形作るという視点は、LLMが動作する上での基盤にほかなりません。これにより、古典的なデカルト的二元論を再考し、より複雑で流動的な認識論へと進化する現代のAIの姿勢を理解する手がかりとなっています。
Prompt:
というわけで今回の結論は、『新装版 アブダクション』は良い本なので、AIのことを知りたがっている僕のような専門外の人は、ぜひ読んでみたらいいよ。
ということでした。
本書付章のもう一本『常識知について』のことは次回。
今夜もしたたか酔っ払ったことよ。
(Dialogue with ChatGPT Feb.2025)