『無我の境地』にたどり着くには―我を無くすのではなく、拡大すること
『ブッダ・ダルマの基本コード』は無常・無我・苦の3つです。日本人にも良くしられているこのコード。この3つなくしてブッダ・ダルマ(ブッダの教える宇宙の法則)をコーディングすることはできません
①無常(アニッチャ)→ ものごとは常に変化の中にあるという本質
②無我(アナタ)→ 我というのはそもそも存在しないという本質
③苦(ドゥッカ)→ 体験のすべてが苦しみの原因であるという本質
聞いた感じあまりポジティブな印象がないので、一見、悲観主義だと勘違いされてしまうような内容です。なぜこの3つのコードがポジティブな印象を与えないのかというと、何度もお伝えしているように、現在のわたしたちは、この宇宙が生まれ、元々はひとつの原始意識だったものから、途方もない回数の分化を繰り返して多様化した果ての姿だからです。
ですから『この現状は仮の姿で、本当の姿は忘却の彼方。借りものでつくろっているからこそ苦しいのだ』という考え方を受け入れることは、一度今の自分を全部否定することになります。それがネガティブな反応を起こしてしまう原因です。
しかし実際は、もともとなにひとつ欠けていない『完璧だった頃の本当の姿を思い出す』という素敵なアイデアなので、ポジティブです。完璧だからこそ、完全な安らぎがそこにはあります。これをインド哲学では『真我』(マハアトマ=巨大な我)と呼びますが、仏教にはその先がまだあって、真我すら淘汰する『無我』(アナタ=アトマなし)の考え方があります。
わたしたちの意識は細胞分裂のように分化しながら、反応で生まれた環境に対する反応を重ねることで個性を生み出してきました。細分化すればするほど、オリジナルとは違うデザインになっていくため、食べる・遊ぶ・仕事・セックスなど、心と体すべての活動を通して起こる結合反応によって、一時的にその完全なる安らぎを『満足』として体験することができます。その満足感を再現しようとして欲求が発生するのがわたしたちのメカニズムです。
日常でのわたしたちは拡大する宇宙の流れに乗って、多様化という自己実現に一生懸命です。それが自然な流れであり、そこに多大なる集中力とエネルギーが注がれます。そのため全体でひとつであるという元からある原始感覚は放っておかれ、エネルギーがそこに注がれることがないために、どんどん薄れていくのです。個であることの感覚(我)が強くなればなるほど、孤独を埋めるために欲求も強くなっていきます。
ブッダの言う無我とは、単に我を抑制して利他をつくすという意味では収まり切れません。自分の中に抑えつけても宇宙にウソはつけないので、抑圧された分のエネルギーはどこかで表現されてしまいます。
そこでブラフマ・ヴィハラ(慈悲喜捨)を通して、完全性へと回帰するために全体感覚を養う練習をします。ブラフマとはヒンドゥーでは創造主にあたりますが、仏教では、意識が分化する前の純粋な状態を指すので、ブラフマ神は原始人的な存在です(原始人じゃなくて原始神ですね)。仏教哲学では、そのブラフマですら何段階かに分化しています。
慈悲喜捨のことをブラフマ・ヴィハラと呼ぶのは、慈悲喜捨の目的が意識を原始的で純粋な状態(ブラフマ)で顕現(ヴィハラ)するためだからです。
そのためにまずは周囲の人やものを自分の一部だと認識するメッタ―(慈)からはじまります。その認識が生まれると一人称から多人称で物事を捉えるようになり、共感力であるカルナ(悲)が発生します。
共感力が育つと縁起の連鎖を理解し、喜びが自分の範囲を超えるムディタ(喜)が起こり、そして最終的に自と他の区別がつかなくなるウペカ(捨)が起こります。
自分を抑えつけるのとは反対で、自分を小さな範囲から解放して、無我へたどり着く過程がブラフマ・ヴィハラです。自分は自分だと思っていた概念の解放が起こるたびに、意識は拡大され、原始的な状態へ帰化していくのが無我への道であり、それが極限まで拡大されたときに『無我の境地』へたどり着くのです。